うつせみ 

1997年11月 9日

            人間敗れたり

 先週NHK衛星テレビ7chは、IBMのスーパコンピュータ Big Blueにチェス世界チャンピオン Kasparovが敗れた経緯を特集した。第1戦は彼が勝った。前回の対戦では当初負け越したが、Big Blueの指し手が読めた後半に挽回して勝利した経緯から、今回は Kasparovが有利と見えた。彼はユダヤ人の父とArmenia人の母に1963年に今話題のAzerbaijanに生まれ、6歳からチェスを始め、1985年以来世界の王位を維持している。

 第2戦に Kasparovは必勝の秘策を持って臨んだ。第1戦で Big Blueが Knightより Queenを大事にした局面を確認した Kasparovは、Big BlueがQueenを取れる罠を用意し、取りに来たら自分のペースに誘い込む作戦だった。罠を見抜くのは罠を考案するより難しい。ところが Big Blueはこの罠には引っ掛からなかった。これがKasparovを大いに動揺させた。

 IBM技術者は Big Blueの思考過程を後からリストで追って、何が起こっていたかを番組に解説した。Big Blueは Heuristic関数を使用していた。つまり8手先までのあらゆる盤面を列挙して盤面ごとの勝率のような評価関数を計算し、それが8手先で最大化するように最初の1手を打つのであった。盤面が罠にさしかかった時、最初はその罠に引っ掛かろうとしていたが、一つのロジックがそれを救った。8手先の関数値を横並びで比較すると今Queenを取ることが正解に見えるのだが、現時点から8手先までの関数値が減少方向にあった。つまり段々形勢が悪化する。その場合には再考するというロジックが組んであったのだ。Big Blueは余裕時間を食いつぶしてQueenを取った場合の9手先10手先の関数値を計算すると、関数値はますます減少する。そこでQueenを取ることを諦め他の手を打った。罠を認識するところまではいかぬものの明確に危険を察知したのである。

 Big Blueが Queenを取らなかったことが Kasparovには大きなショックで、精神的に立ち直れない内に第2戦は負けてしまった。彼は用意された記者会見場に姿を見せることなく帰ってしまう。彼は相手の局風を読み取って対戦するスタイルなのだそうだ。つまり Heuristic関数の構造を読み取って対戦すれば、あらゆる指し手を網羅的に考えなくても済むということである。その晩彼は殆ど徹夜状態で Big BlueがなぜQueenを取らなかったかを考えに考えて果たさず憔悴した。第3戦は Kasparov先攻で有利に展開したにも拘らず精神的疲労のために引き分けに持ち込まれてしまった。記者会見場で彼は、直前の第3戦のことは棚に上げて第2戦でなぜ Queenを取りに来なかったかそのことばかりを口にしたという。

 第4戦、第5戦も引き分けであった。これら引き分けの3戦の内1つや2つは正常な Kasparovなら勝っていた盤面だったと専門家はいう。Big Blueが引き分けを提案し Kasparovが拒否したシーンもあった。後で見ると Big Blueは引き分けにしかならないことを先読みしていたという。

 第6戦でKasparovは悪手を打ってしまう。チェスの心得のある人なら絶対に打つはずが無い手で、恐らくは憔悴した彼が、まずAをやってからBをやるというような順番を間違えてBを先にやってしまったに違いないと専門家は言う。しかしこのミスを Big Blueが見逃すはずがなく、彼は結局この第6戦を失い、通算1勝2敗3引き分けで負けてしまった。

 人間とコンピュータは考え方が違う。コンピュータは例え網羅的には無理でも、絨毯爆撃的にあらゆる可能性を平等に列挙して評価関数で打ち手を決めていく。人間は記憶・定石・駒への想いなどを総合的に評価して可能性を絞り込み打ち手を決める。また人間の局風は不変であるのに対してIBMは毎日評価関数を調整したと Kasparovは非難し、IBMはそれは当初の約束の中と言っている。相手の局風を読み取って対戦することを得意とする彼は混乱し憔悴した。彼は対局をNotebook PCで整理していたようだが、人工知能の土地勘が不足していたのではないか。

 Kasparovはチェスで負けたというより、理解を超える怪物と対戦して精神的に参ったようだ。勝てる対戦を落とし、天才でなくとも気付くミスまで犯して自滅したと聞き、私は彼が好きになり、人間が好きになった。同じ負けるならこういう負け方で良かったと思う。       以上