うつせみ 
1995年10月28日
          クレオパトラ不美人論

 NHKテレビでクレオパトラ不美人論を聞いた。証拠として当時のクレ オパトラの胸像が出てきた。鼻が欠けたその石像に比べれば、私がかって 大英博物館で見かけたクレオパトラの石像の方がよほど美人であったが、 それでも私は「えっ? これが超美人のクレオパトラ?」と奇異に感じた ことを思い出した。不明にもこの時初めて、クレオパトラはエジプト人で もアフリカ人でもなくギリシャ人だったことを学んだのだった。

 テレビには早稲田の名物先生吉村作治助教授が出演し、クレオパトラが シーザーとアントニーを魅了したのは、美人だったからではなく、当時の 都アレキサンドリアに花開いた高度の文化と最高の学者群に磨かれた知性 だったに違いないと説明した。いわゆる「閨秀」の女王だった訳だ。

 クレオパトラを超美人にしてしまったのは、後世の画家の仕業だという。 一般大衆の脳裏からは忘れ去られていたクレオパトラを、ルネッサンス時 代の古代回顧主義が美人画で再デビューさせたのだという。それに仕上げ をかけたのがエリザベステーラーのハリウッド映画だったに違いない。

 しかし待てよ、美人不美人の基準は二千年も変わらない訳? 京の姫君 にもてまくった源義経は酷い出歯だったというし、アフリカの首長族では ロクロ首のような首が美人だという。私の祖母はエリザベステーラーの写 真を見て「気の毒に、こんなに大きな目鼻立ちに生まれついてしまって」 とつぶやいた。二千年前のクレオパトラを現代の基準で論じるのは歴史の 冒涜ではないか? それに知性美人もスタイル美人も美人に違いない。

 美男美女とも言うが、美人・麗人・佳人と言えば女性のことである。こ ういう「人」の使用法は日本語の中で珍しい。Beauty, Schonheit, Beaute いずれも「美」という言葉が「美人」をも表している。洋の東西 を問わず「美」と言えば女性のことであるらしい。例外はあるとしても、 実際大抵の女性は美しいし魅力的である。

 残念ながら美人度の7割は先天的で、後天的な部分は3割に過ぎない。 逆だったらどんなにいいだろうに。天分、例えば数学や音楽の才能なども 同様であろう。社交力、想像力、創造力、忍耐力、包容力、体力、など人 間の才能は多角的で、誰でも一つや二つは取り柄がある。みな同様である が、クレオパトラから始めてしまった都合上美人の話で続けよう。

 たまたま美人に生まれた人は、美貌は天から自分が預かった社会の共有 資産と考え、私することなく、3割の後天的努力を怠らず、万人のために 役立てる義務がある。折角天が預けてくれたものをおろそかにしては罰が 当たる。これが美人の正しい自覚である。数学や音楽の才能を万人に役立 てるなら判るが、美貌を役立てるとはどういうことかと、自覚不足の美人 に限って言いそうだが、私に言わせれば美貌も数学の才能も体力もみな同 じである。自ら磨き、天賦を活かす人生設計をし、自分が世の中に役立つ よう努力することである。

 美人は多く自意識過剰なものだが、中には美人としての自覚が無いかに 見える美人も居る。井上章一の「美人論」(リブロポート社)によれば、 明治年間の女学校の修身の教科書には、「美人は、往々、気驕り心緩みて、 却って、人間高尚の徳を失ふに至るものなきにあらず」などとあり、美人 をこきおろす教育がなされていたという。今もってこういう風潮は無きに しもあらずだから、美人の自覚が無いかの如く振る舞い、あるいは「美人 であって申し訳ない」風情で居れば、自己の社会的位置づけつまり仲間関 係の形成に有利であり安易である。実は振る舞いはどうでもよいのだが、 心の中での自覚はしっかり持って欲しいものである。

 美人には幸せな結婚をして欲しい、幸せな人生を送って欲しい、何十年 も経ってからの同窓会で会ってもやはり美しい人であって欲しい。こうい う期待を裏切ることは社会的義務違反である。

 クレオパトラが毒蛇で自殺したのは、この世を去った時の幸せが永久性 を伴って来世に再現されるため、崩壊しかかった幸せを固定するためであ ったと吉村先生は説明した。私の趣味としては、順境の時も逆境の時も、 若いときも年老いた時も、美人はこの世で美人であって欲しい。 以上