大宰府
福岡での仕事の翌日が偶々土曜だったので、初めて太宰府市を訪れた。漠然と福岡市の西方のような誤解と、菅原道真、天満宮、程度しか頭に無かったのだが、博多駅からは南東に15 km行った太宰府市は7世紀飛鳥時代から13世紀の元の侵攻まで「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれる西の都であったことを知った。そもそもMS-IMEで「だざいふ」と入力すると、「大宰府」「太宰府」と2種類出てくる。「だざいふし」では「太」だけである。「大宰」という官職の役所として「大宰府」があり、しかしその地名は「太宰府市」であり、従って「太宰府天満宮」である。
大陸との交通の要博多がまだ「那の津」つまり「那の国の港」と呼ばれていた飛鳥時代に、ここには宮家と呼ばれた朝廷の出先機関があり、609年には「筑紫の大宰(おおみこともち)」という官職がその長であったことを日本書紀は伝えているそうだ。大宰は吉備などにもあったが、筑紫以外は廃止され中央直轄になっている。半島で日本と友好関係にあった百済が新興勢力新羅に敗れて660年に滅びた。台湾を捨てて中華人民共和国を採ったNixon大統領のような決断が出来ず、日本は援軍を半島に送り百済の再興を図ったが、663年白村江の戦いで唐・新羅連合艦隊に惨敗した。
この外交の失敗で日本は唐・新羅からの九州侵攻に備える必要と、その前提条件としての九州全土の掌握の必要を痛感し、大宰は港に面した場所から内陸に移り、大宰府が設営された。今回「朱雀大路」という交差点名を見て驚いたのだが、平城京・平安京と同様に(しかしそれらより前に)大陸に真似て22条・左右12坊の碁盤状の町並みがあったらしい。亡命百済人の指導で博多方面からの侵攻に備えて水城(みずき)という堀と土塁を 1.2 kmにわたって構築して谷を遮り、北の大野城、南の基イ城(イは疑の偏と津の旁)という二つの朝鮮式山城とこれらをつなぐ土塁などの一大防衛線を構築したが、幸い侵攻はなかった。大宰府は壱岐・対馬を含む九州全土の治世と外交を担当し、中央政府の権限を大幅に委譲された特別行政区政府であった。
ずっと時代が下って平安時代901年に、藤原氏との政争に敗れた菅原道真は、諫言(無罪ではないという説もある)によって右大臣から大宰権師(だざいのごんのそち、師の旁が巾、副長官)として左遷された。道真は朱雀大路の榎寺で蟄居し、2年後903年には他界した。その柩を東の街外れの寺に埋葬した上に905年に社殿が建ち、太宰府天満宮となった。
折しも京都に天変地異・疫病が起こり道真の祟りと恐れられた。以前から天の神を祭った天神様は全国各地にあったが、雷神信仰の京都の天神の祠を北野天神として拡充し道真の怨霊鎮撫に当たらせて以来、道真への信仰が北野天神で行われるようになり、学門の神社に変身した。こうして平安中期には全国の天神様が皆これに習った。
道真が京を去る時 東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな(拾遺集)
(この方が本当くさいが) 春な忘れそ(大鏡)
と読み、花の香を東風で大宰府に届けてくれと願った。その期待に応えて梅そのものが飛んできて(なぜか榎寺ではなく)天満宮の社殿の真ん前に根を下ろして「飛び梅」と呼ばれ今日に至っている。社殿の周囲には見事な梅林があり、新春には賑わうという。天神様と梅の関係はこの歌に発しているのであろう。福岡にはご承知のように天神という繁華街がある(天神様があるのでしょうね)。各駅にシンボルマークを定めている地下鉄の天神駅のマークは緑の小丸を5個梅の花弁のように並べたものである。太宰府天満宮で梅より印象的だったのが、実は楠の大木であった。境内にも巨木が多く、見回せば山も楠で覆われていた。
天満宮のお隣に光明禅寺という鎌倉時代のお寺がある。詩文を嗜む禅僧の間に道真は実は宋(唐)に渡ったという信仰が生まれて天神様と禅が結びついた時代があったことを知った。別名苔寺の名の通り美しい苔と海を表わす白砂、楓と石楠花の庭園が見事であった。
短時間だったが多くのことを学んだ半日であった。 以上