Edinburgh城
Edinburgh城は迫力ある城だ。Scotlandの南の国境に近い位置付けから常にScotlandとEnglandの責めぎ合いの舞台となり、今でもScotland人の愛国心の拠り所となっている。またそれに相応しい威容を誇っている。
何億年か前に溶岩が盛り上がって玄武岩の固まりが出来たそうだ。氷河時代に氷河がこの玄武岩の固まりにぶち当たり、左右に分かれて流れた結果、流線形に削り残された地形が出来上がった。東側がなだらかな傾斜地である他は三方が切り立った岩壁である。東側を石垣と砲台で守り、北側の窪地に水をたたえて堀としたこの城は難攻不落だったそうだ。今はこの窪地が美しい公園となり、半地下式の鉄道が通る。窪地の北側の高台には、英国では珍しい計画都市New Townがある。と言っても2.5世紀前の建設で、今はショッピング街、ホテル街になっている。
私が初めてEdinburghを訪れたのは、1968年にEdinburgh大学で行われた国際情報処理学会(IFIP)に論文発表に来た時だ。論文が採択されれば英国に行けると一生懸命論文を書いたものだ。発表はスムースに終わり、便所で出会った議長から論旨明解で良かったと誉められたのに気をよくして、そぞろ歩いた黄昏のNew Townから、夜間照明のEdinburgh城を見て美しいと思った。その時は社用出張だから城内見学の時間も無かった(真面目だった訳だ)。その後Londonまでは何度も来たがEdinburghに足を伸ばす機会が無く、今回二度目にワイフと城内を見物して回った。
この岩山には石器時代の遺跡があり、またローマ帝国の前線基地があったという。6世紀には Din Eidyn(Eidynの岩上の砦)というケルト人の砦があったが、やがてゲルマン系のアングル人に占領され、854年にはアングル語(英語の源の一つ)でEdwinesburh(Edwinの城郭都市)と呼ばれていた。これがEdinburghの語源である。
アングル人のMalcolm 2世が1018年にEdinburghを中心にScotlandを建国した。その子David 1世が亡母Queen Margaretに献じた礼拝堂が城の最も高い位置に現存する最古の建物である。以降Edinburgh城はScotland王とEngland王の間で奪い合いとなり、1341年にScotlandが奪還するまで5回支配者が交代した。England軍はおよそ正攻法で、Scotland軍は北壁を30人でよじ登ったり、商人に化けて正門から奇襲攻撃をかけた。岩壁を下から見上げてみて、いやこれは登れるなと思った。自然の岩壁だから凹凸も割れ目もある。但し最上部の石積みの壁は登れないからロープか梯子が必要となる。攻撃の度にその経験を生かして城は強化され益々堅固になっていった。Scotland王James 3世は15世紀にEdinburghを正式に首都とした。
16世紀のQueen Mary of ScotsはEdinburgh城で後のJames 6世を生んだが、直後の再婚に政治的な失敗があり、Mary派と幼帝James派に分かれた内乱がScotlandを二分し、Maryは従姉妹のElizabeth 1世を頼ってEnglandに亡命するが、ProtestantのElizabethを廃してCatholicのMaryを立てようとする宗教対立に巻き込まれ幽閉され、1587年には処刑されてしまう。Mary派の最後の拠り所がEdinburgh城だったが、James派は攻めあぐねて遂にEngland軍の応援を要請する。England軍は大砲を並べて石積みの城壁や塔を徹底的に破壊し尽くしたため、1573年に落城した。
一生独身のElizabethに後継者は無く、遠い血族のScotland王James 6世が1603年にEngland王James 1世を兼ね、両国は統一に向かった。LondonのWestminster Abbeyの一番奥まった位置に左右対称にElizabethとQueen Mary of Scotsが葬られている。斬首しておいて一等席に葬る偽善を感じたが、これは両国の王となったJamesの配慮だという。王権はScotland王がEngland王になったものの、実質面ではEnglandによるScotland併合であったから、Scotland人は今もってEnglandに複雑な感情を持つ。
観光バスの運転手兼案内人は、乗客の出身地を尋ねて挙手させ、仏、独、露と欧州十数カ国を列挙し、北米南米オセアニアの国々を挙げ、日本などアジアの国を並べてから、「あ、そうそう、England」と言い、一旦「No Comment」とEngland人への無関心を装ってから、取って付けたように「Good people in reality」と客商売としての配慮を見せた。 以上