Flamenco
先週ワイフとスペイン観光に行き、Flamencoの片鱗に触れて来た。元々Flamencoはスペイン南部Andalucia(英語では-sia)のGypsyの踊りで、14世紀に社会の底辺でまじりあったジプシー、アラブ人、ユダヤ人などによって創り上げられたという。ジプシーは14-15世紀に欧州に流れ込んだインド起源の流浪の民だが、人々はEgyptから来たと思い込んでGypsy, Gipsyと呼んだ。歌にはインドの影響が見られ、ダンスも古いヒンズーの踊りに似ているという。19世紀になってからCafeで歌い踊るプロが誕生し、Flamencoという名も生まれた。だからAndaluciaが本場と思ったのだが、人気ダンサはすぐMadridに引き抜かれてしまうという。
Andaluciaの古都GranadaのAlhambra宮殿前のホテルに到着するや、日本語の片言を話すジプシーの若者が現れ、一族でやるFlamencoショーへの勧誘に5カ国語記載のパンフレットを呉れた。費用3,500 Pesetas(= Yen)は同じでも日本語と英語で内容が微妙に違う点をウサン臭く思ったが、まあ夏の夜長を退屈に過ごすよりはと申し込んだ。夕食後9:45pmに迎えのミニバスに乗ると、宮殿と相対するSacromonteの丘の狭い道を登り、ジプシー街に入った。歴史的にはここでアラブ人が家畜を飼った洞窟に、アラブと入れ替わりに進出したジプシーが住み付いたと言われる。その洞窟の一つでショーをやるという触れ込みだったが、私には地下室にしか見えなかった。白く塗った天井から無数のフライパンがぶら下がっている細長い地下室にコの字型に座った40人ほどは、全部日本人だった。日本人は金払いが良く、何を見せても文句を言わない良い客筋ということであろう。
道路で涼む出演者が交代で地下室に入ってきて踊る。5歳ほどの女の子、12-13歳くらいの少女、その母親らしい若い女性、その母親と見られる中年女性、など一家総出の出演である。中年女性の母親とおぼしき老女は踊らず歌い手として参加した。決してうまい踊りには見えなかったが、同じ顔つきの四世代の女性は人間の経年変化のサンプルを見るようで面白かった。時代の変化か年季の違いか、年長の人の方が上手に見えた。
この夜の収穫は実は展望台から見たAlhambra(= the red)宮殿のライトアップだった。アラブ人最後のNasrid王朝が建設した要塞兼宮殿の日干し煉瓦の城壁が照明に赤く輝く。カトリックのIsabella女王に無血開城したのが1492年1月2日で、このイベリア半島のキリスト教化完了後初めて女王はColumbusに渡航を許したので、新大陸発見も同年となった。
Madridでは最高のFlamencoを見たいと志し、Corral de la Moreriaという劇場に予約して貰った。夕食付きの方が良い席になると聞いてそうした。こういう場合は風采で席が決まるという私の常識から、一応はキチンとして9pm過ぎに入ったのだが、テーブルアレンジの段階で既に日本人席が出来上がっていて、ワイフのおめかしも無駄な努力だった。更に怪しからぬことに、西語の食事メニューにはあるセットメニューが日本語メニューには無く、アラカルトで注文する日本人は高い食事をする仕組みになっていた。私の限られた西語の知識とワイフの料理の知識で何とかセットメニュー内のセレクションを切り抜けた。
食事が終わる10:45pm頃から始まったFlamencoの第1部は、5人の踊り手から成る一座だった。さすがにプロである。若い踊り子は若さで見せる。年長の踊り手はあまりドタドタせず流れるような美しい動きを見せる。
真夜中0時から始まった第2部は、プリマドンナ風の30歳ほどの美人ダンサが、男性の踊り手、ギタリスト、歌い手を引き連れて出演した。恐らくは修行の末独立して一座を構えたのであろうこのFlamencoダンサは満場を魅了した。一挙手一投足がただただ美しい。細やかにあるいは大きく、優美にまたは激しく、悲壮にもしくはコケティッシュに踊り、1回の着替えを挟んで1時間の独り舞台だった。これぞ本物、一流のFlamencoと思い知らされた。この第2部が1 amに終わると、観客の2/3は帰ってしまった。
第3部は基本的に第1部の繰り返しであった。その終了を待って2pmに帰路についた。朝型の私には珍しく2amまで堪能し、食事込み一人11,000 Pesetas(=Yen)の出費を惜しいとも感じなかった一夜であった。 以上