印伝
私が23年間持ち歩いている印伝の名刺入れは、名刺は2束持ち歩くというサラリーマン道に反して、これだけに目一杯詰め込むので若干草臥れては来たが、上品な紺色の鹿革に白い漆の王朝模様が今も健在である。
1976年に私は本社に呼び出され、万年赤字のメインフレーム事業のリストラに乗り込んで来られた棚次専務が、前事業部長の小板橋氏とそのスタッフを追い落として刷新する参謀に位置づけられてしまった。幸い私は追討の実戦よりも再構築を主に担当した。棚次氏の追討は凄惨を極めた。施策の徹底には旧習の否定を目に見える形で明示することが必須と頭では分かっていても、私の心は痛んだ。経営的にクールに見れば棚次氏の方が正しいとしても、与条件の中では十二分に頑張った小板橋氏とそのスタフの情熱と献身的な努力には頭が下がる思いだったからである。
経営会議で幹部が拘束されている時間を狙って小板橋氏が秘書一人に見送られて淋しく去られた後、結果はともかくコンピュータに半生を捧げた氏に何か感謝の意を表したいという気持ちが募ったが、本社では親しい部下ですら氏に話かけることをはばかる雰囲気だった。
まだ工場気分が抜けていなかった私は、昔小板橋氏に工場管理者会での講演を依頼した縁を思い出し、工場の仲間2人と語らい、青梅在住の陶芸家故川合修二氏(玉堂氏次男)の夫婦茶碗を持って氏をご自宅に訪ねた。この時氏が我々3人に「これはなかなか良い物なんだよ」と下さったのが冒頭の名刺入れだった。この時私は初めて印伝という言葉を知った。
ところでこの名刺入れの模様の一部には「天保四年1833」という不思議な年号が入っていて、最近までずっと謎だった。
中央自動車道の甲府南IC近くの山上にある記念館風の建物を訪れる機会を最近得た。甲府の印章業で財をなした社長が印相協会なるものを設立し、買い集めた象牙彫刻のコレクションを展示し、併せて印章店の出店を集めたのがこの建物だった。一角に地元産品の店もあり、沢山あった印伝の商品にワイフが引っ掛かってしまった。結局バッグを買うことになったのだが、その印伝には「正平六年六月一日」という日付が模様の一部になっている。当然私は店員に日付の由来を尋ねたが要領を得なかった。
印伝は染めた鹿革(または羊革)の上に和紙の抜型を置いて漆の模様を載せた型染で、甲州名産で甲州印伝という、名は「印」度「伝」来の略と辞書にあった。模様革は印度の特産だから、広く模様革を印伝と呼んだ時代があったのかも知れない。模様革の歴史は先史時代からで正倉院にも見られるそうだ。藁で燻した黄色の鹿革と漆の組み合わせが室町時代から武具に使われたという。甲州名産として大いに発達したのは意外に新しく江戸時代後半らしい。近代になってから革を様々な色に染色し、着色漆との組み合わせで近代的なデザインが出来るようになった。
天平何年とか書いた古い印伝が今日に伝わり天平印伝と呼ばれているそうだが、学者は天平のはずはなく後世の作だとしている。同様に南朝の「正平六年」(1351)の年号を記した印伝が広く流布し正平印伝と称されている。そのレプリカがワイフの買った印伝だった訳だ。古風に藁で燻した革を使っている。私の名刺入れの天保の年号は1833とアラビヤ数字で西暦が併記してあるのがご愛敬で、鮮やかな紺色の革も近年の作の特徴でレプリカですらないが、年号を模様にするという伝統を受け継いでいる。
ところで印伝は今日甲府にしかなく、甲府にも五軒しか店がない。店ごとに何十種類かの独自模様を守っている。中でも甲府市役所の東1kmにある上原屋は一頭地を抜いて大きく、中央自動車道双葉SAを初め各地に広く販路を持っている。伝統的な模様の他に近代的なデザインのPrivate Brandを数種類持っている。デザインや品数が豊富で千円ほどの小物もあるが、全体的にはトップブランドの価格を維持しているように見える。私の名刺入れの模様と同じ印伝が上記印相協会の売店にあった。ここは池田屋の出店で、品質の割に高くないと見えた。
旅立ちの愚息に上原屋の紺色の印伝の名刺入れを贈った。何十年も持ち歩いてくれるだろうか。 以上