うつせみ
2001年 2月11日

             伊豆諸島

 今朝のNHKの「小さな旅」は、椿で全島真っ赤に染まる伊豆七島利島の、椿と伊勢海老で成り立つ素朴な生活を伝えた。利島は今海上40 km先の目の前に見えている。裾野を波で洗い取られた富士山型だ。

 伊豆高原駅の跨線橋は相模湾の眺めを堪能する絶好の名所で、伊豆諸島の展望案内図が掲げてある。ここだけでなく、海岸は勿論だがちょっとした坂の上とかこの周囲の意外な位置から素晴らしい展望が楽しめる。まず正面に伊豆大島が視界を大きく占めている。里の家々が光って見え、最近の降雪で三原山は意外にも内輪に雪を頂いている。その左には房総半島の低い山々が遥かに望める。距離的にはより近い三浦半島は角度の関係で見えない。大島の右には伊豆諸島が連なり、更にその右には下田御用邸がある須崎半島の一部で野生水仙で有名な爪木崎が意外に近く見え、望遠鏡を使えば灯台まで認識できる。その右には天城連山が連なり、学生時代に踏破した伊豆半島最高峰の万三郎岳の頂上が顔を見せている。

 伊豆諸島は全て、沈み込む太平洋プレートと伊豆半島を乗せたフィリッピンプレートの境界線の後者側に噴き出した火山島である。日本書紀以来伊豆の国に所属し、廃藩置県で韮山県、明治9年に静岡県となったが、国防上の理由で明治11年に東京府に編入され今日に至っている。但し指呼の間にある初島はさすがに静岡県である。伊豆諸島には都庁の3つの支庁があり、本土の郡に相当する。大島支庁(*大島、*利島、*新島、*神津島)、三宅支庁(*三宅島、*御蔵島)、八丈支庁(*八丈島、八丈小島、青島)である。このうち*印を数えて伊豆七島という。伊豆諸島は一列に並んでいるように思っていたが、少し違う。大島を北端とし、三宅支庁と八丈支庁の島々、それから更に南の鳥島まではほぼ一直線で、真南よりも10度ほど反時計回りに傾いている。その先の小笠原支庁はこの直線から少し外れる。それに対し大島支庁の島々は真南より10度ほど時計回りに傾いた一直線だ。そのお陰でこれらの島は伊豆半島から比較的よく見える。

 伊豆高原から見た島々は左から右に、本当に巨大に見える大島、利島、岩礁、平坦に見える新島、小さな無人島の地内島、平らな式根島、これも富士山型の神津島が並ぶ。要するに大島支庁の島々しか見えていないから、伊豆七島の内4島しか見えない。式根島も数えるのかと思ったら新島村式根島といって新島の属島扱いだった。写真などを見ると、天気が素晴らしければ三宅島も見えるらしいが、まだお目に掛かったことはない。御蔵島と八丈島は見えたことが無いと地元の人も言う。概算すると、例え視界が良くても水平線の下らしい。(後日天気の良い日には三宅島と御蔵島は見えることが判った)

 伊豆諸島・半島は7世紀来流刑地だった。明治に廃止された流刑という概念は考えてみれば面白い。受刑者がそれで大いに落胆しなければ刑の意味が無いのだが、今は態々遊びに行く観光地になっている。外国でもコルシカ島もオーストラリアも同様だ。流刑は勿論罪が重いほど遠くに流されるのだが、時代が下るほど流刑地が遠くなる。江戸時代には、重罪人で死刑を危うく免れれば「八丈送り」だった。江戸初期には大奥の禁断の恋(策謀説も)で女中絵島は信州高遠に、人気役者生島新五郎は三宅島に流刑となった。保元の乱で敗れた源為朝は大島どまり、頼朝は伊豆半島で済んだから北条氏と結託して再起を計ることができた。鎌倉で既成仏教を邪教呼ばわりしてひるまなかった日蓮上人も流刑となったが、彼も一度目は伊豆半島どまりだった(二度目は佐渡)。但し流刑船の役人が、満潮では水没する俎岩という沖の岩礁に日蓮上人を下ろして帰ってしまった。「未必の死刑」である。日蓮上人はそこで一心に南無妙法蓮華経を唱えると、祈りが通じて漁船に発見され助けられたので、そこに後日俎岩山蓮着寺というお寺が出来た。ところで不思議なのは、その俎岩から岩壁までは数十米、近くの浜まででも約百米である。相模湾の波が荒いとはいえ、千葉の小湊の漁夫の息子として生まれた日蓮上人が泳げない距離ではないように思える。後の世の脚色が加わった可能性がある。

 私の家内も伊豆大島以外の伊豆諸島には行ったことがない。暇ができたら伊東から船に乗って、流刑者になってみようか。      以上