うつせみ
1997年 12月 1日

             百済観音

 黄金色の銀杏の葉が舞う上野の東京国立博物館に、百済観音を見に行ってきた。少々物好きの感が無いでもない。ワイフと二人で9月に奈良法隆寺に行った時には生憎この仏像はParisのLouvre美術館に出掛けていてお留守だった。昔MiloのVenusが日本に来たお返しだというから気の長いお返しである。法隆寺には代わりに東京国立博物館所蔵のレプリカが置いてあった。古色蒼然とした完璧なレプリカだったから、本物と言われればそれまでだったのだが、Louvre展示の様子などのニュースを見てしまうと無念が残った。法隆寺には前にも行ったのだが愚かにも大宝蔵殿(宝物殿)には入らなかったので、一度も拝観していないことになる。

 それにしても彩色も剥げて黒ずんだ斑点模様になってしまった欧米人には薄汚くしか見えないであろうこんな仏像が、Parisの一般大衆に分かるのだろうか、とレプリカを見て心配した。Louvreでの反応は分からないがLouvreによる写真と紹介は

に出ている。何しろ実物に照明とカメラを向けることができる博物館のサイトだから私共の個人サイトより奇麗な写真である。

 法隆寺では百済観音を祭るお堂の建設中であった。大宝蔵殿からLouvreに行き、同じ梱包で日本各地を回って法隆寺に戻るとお堂が完成している計画らしい。勘ぐれば自宅建設のための出稼ぎのような気もする。

 もしかしたら列ができているかと危惧しながら到着した東京国立博物館には大した人垣もなく、ゆっくり拝観できた。法隆寺で見たガラスケースより一回り大きな真新しいガラスケースに入っていたから、台座下に温湿度調整付きのケースを今回特注したに違いない。案の定私にはレプリカと区別が付かなかったが、ワイフは胸に迫るものがあったという。仏像には珍しい八頭身でスリムな長身である。丁度百年前に今日の国宝に相当する文化財に指定された最初のグループに属するそうだ。

 Museum Shopで解説書を買って帰りの電車で勉強したところによると、百済観音は謎の仏像だという。まず寺宝の詳細を極めた747年の法隆寺の古文書には記録が無く13世紀の記録にもない。17世紀末に至って急に記録に現れ、18世紀の文書には百済渡来の天竺の像だが前歴不明とある。近くの尼寺中宮寺が荒廃したので仏像などを法隆寺に移した記録があるので、15-16世紀に法隆寺の寺宝に加わったのであろうという。中宮寺は現在は法隆寺の一部のような配置で夢殿に隣接しているが、16世紀までは500mほど離れていたそうだ。最初は観音像ではなく虚空蔵菩薩と呼ばれ、昭和初めまでは金堂の釈迦三尊像と背中合わせに安置されていたが、後に大宝蔵殿に移された。明治19年の岡倉天心などによる国家調査では観音菩薩であることが看破され「朝鮮風観音」と記載された。また百年前の明治30年に文化財(国宝)に指定された際には「観音菩薩 伝百済人作」とされた。百済渡来とせず百済人の作と伝えられるとした訳だ。これに対して法隆寺は虚空蔵菩薩への名称変更を申請して却下されている。明治の末に3つの青いガラス玉のついた冠が発見され、その模様から観音菩薩と法隆寺も認め、大正6年の法隆寺資料に初めて「百済観音」の名が記載された。

 作風、伝聞、上記18世紀の文献などに基づいて「百済観音」とされた訳だが、よくよく調査すると樟の木(クスノキ、楠と同じ)で出来ていて、これは飛鳥時代には盛んに利用された木材だが朝鮮では全く利用されなかったとかで、日本製と判定された。もっとも当時多かった百済人の亡命者・移民が日本で制作した可能性を否定できるものではない。大体は樟の大木から削り出したのだが、顔面は乾漆といって漆に麻や木粉をまぜて練ったもので粘土細工のように作ったものだという。

 ともあれ目と心の保養をさせて頂いた。私も一段と人格円満になったに違いない。ただ一言蛇足を加えれば、どうせレプリカを作ったのなら、開眼当時の原色鮮やかな彩色にした方が私には分かり易かったな。  以上