火星
最近帰宅時に南の空を見上げると、赤い星と青い星が二つ並んで美しい。赤い星は一見してそれと判る火星である。青白い明るい星は乙女座の一等星Spicaで、明るい星の15星に入る。Spicaは乙女または女神が左手に持つ麦で、わずか270光年の距離にある。二つの星がワルツを踊るカプルのようにグルグル回る連星系で、明るさが変動する脈動変光星である。
この二つより経度で45度近く左側(南東側)の低い位置に、さそり座の背中に当たる一等星Antaresが上ってくる。7時ごろ水平線を離れ8時位から見えてくる。470光年のこの星も連星系の脈動変光星で、0.9等星から1.8等星にまで変化する。一方が太陽の230倍の直径を持つ赤色超巨星つまり消滅数百年前の老齢期の星である。この星の名前が面白い。火星の英語はMarsでこれは戦いのローマ神である。もう一時代前のギリシャでも戦いの神Aresに擬されていた。この火星と同様に赤く輝くさそり座の星を火星に対抗するライバルとしてAntaresとギリシャ人は呼んだ。英語のAnti-に相当する。火星とAntaresが同一視野に居るのも面白い。
欧州文化に比して日本人は古来あまり星に興味を持たなかった。ギリシャ神話と結びつけた壮大な星のロマンを描き出したギリシャとは比べ物にならないばかりか、古典に出てくる星は「すばる」くらいしか無い。占いと一体の天文学は中国から学んだ。これを不思議がった欧州人は、農耕民族は夜明けと共に働きに出て日暮れには疲れて寝てしまうから星どころではなかったのだろうという学説を立てた。疲れて帰るサラリーマンも星どころではないと言われるとシャクだから、現代日本人は偶には星に目を向けて見ようよ。梅雨入り宣言にも拘わらず幸い星は出ているから。
実は火星には和名がある。「赤星」がそうかと思ったらそれはAntaresの和名だった。Antaresは「酒酔い星」とも言う。ほろ酔い加減で帰る夜道でなんだ俺と同じじゃないかと思った命名だろうか。火星は「夏日星」というそうだ。惑星だから夏に出たり冬に出たりするが、夏の太陽のように赤いという意味だろう。中国では人心を迷わせる星の意味で「螢」の「虫」を「火」に置き換えた字と「惑」と2文字で「けいわく」「けいこく」と読む名がついているそうだ。火星にはもう一つ和名があって「西郷星」という。1877年の西南の役に、戦争の星である火星が実は大接近し、-2.5等星(Logにして一等星の2.512**3.5=25倍、つまり10**25倍の明るさ。「等」は2.512倍)として輝いたのでこう呼ばれた。
火星は地球の弟分でよく似ている。1日は24時間半、1年は687日。木星以遠はガスの星だが火星までは地殻と大気を持つ。水星・金星は灼熱地獄だが火星の地表温度はマイナス百度乃至プラス数度と、厳しいが物質が変質しない範囲である。大気は地球の1/200と薄く、二酸化炭素が95%だ。原始の地球大気も二酸化炭素だったが、太陽との微妙な距離のお陰で水が蒸発も凍結もせず海が出来たから、最初は無機的に、やがて珊瑚が海中に融けた二酸化炭素を石灰石に変え、二酸化炭素は大気の3%になった。
火星探査機の写真で見ると、火星の表面はアリゾナの一部の赤い砂漠にそっくりだ。酸化鉄を豊富に含む赤い土の水分はわずか1%程度で、ちょっとした風ですぐ舞い上がって砂嵐になる。だから火星の空は薄紅色に写っている。砂嵐になると太陽光の吸収が進んで上昇気流となり、更に風が吹き込む。Grand Canyonすらあるらしいが、水流が掘り込んだという説よりも地殻変動で割れ目が出来たという説の方が有力である。
地球と同様自転軸の傾きによる四季があり、極地の白い氷が伸縮する。夏でも融けない氷は水で、伸縮するのは二酸化炭素つまりドライアイスだという。19世紀末に火星には運河があって高等生物が居るという仮説が盛んになったが、探査機では生物の片鱗も発見できなかった。しかし火星に落下した巨大隕石が火星から叩き出したに違いない岩石が隕石として地球に降り、南極で発見されたのを精査すると有機物が見付かった、だから昔は生物も居たのだとNASAが言い出して調査予算を獲得した。タコのような火星人が居なくて残念だったが。こんなことを考えながら今日も火星に向かって坂を登り帰宅した。 以上