うつせみ
2000年 2月15日

             身延山

 2月の3連休の中日にワイフと身延山久遠寺を訪れた。日蓮宗ではないがドライブに適当な距離で混まない目的地と見た訳だ。中央自動車道甲府南ICから30km富士川沿いに南下する。私の自作自筆の俳句の石碑を建ててもらった句碑千基の「句碑の里」も近いので来たことはあるが、ゆっくり来たのは初めてだ。今迄は車で登れるだけ登った場所の広い駐車場に止め、裏からほぼ水平に境内に入ったが、今度は案の定空いていて山門近くに駐車出来たので、仁王様が頑張っている三門(と書く)から入った。

 さすがに大木の杉並木を抜けると、滅多に無いほど急で長い石段があった。1段40cmほどの高い階段を数えたら286段だったが、案内書には287段とあった。数え間違いかも知れないが仏教流の「数え年」ではなかろうかと思う。石段は急だから「お年寄り」は男坂か女坂を登れと大きな看板があり、俺はお年寄りかどうか自問しつつワイフに提案したが、「お年寄り」に拘ったワイフは石段で登ろうという。あの看板は逆効果がある。ワイフと私はおのがじしマイペースで登った。若い頃登山に凝った私のペースはゆっくり休まないで登ることだ。ワイフは休憩しながら登った。白いものを垣間見せて我々を追い越していったミニスカ厚底の女性も、我々よりゆっくり登った50歳代のおばさんも、登り切った所で貧血で動けなくなってしまった。なぜ自分のペースが判らないのかなあ。

 本堂に上がると渡り廊下伝いに諸堂の内部を行くことが出来るのは、外の雪を想定してのことだろうが、今年は雪の気配も無い。ご本山でも気取らず開放的な所が素晴らしい。修行僧が会釈してくれたりする。立派なお寺だ。庭に有名な枝垂れ桜がある。いつか咲いた姿を見たいものだが、その4月初めには車は全然入れず、3-4km歩かないといけないという。

 裏山からロープウェイに乗り標高1,247mの身延山頂の奥の院「思親閣」に登った。日蓮上人がよく2-3時間かけてここまで登り、遥かに故郷房総半島の亡き両親を思慕した故の命名という。房総半島は見えないが天気が良ければ伊豆半島の一部は見えるそうだ。東には雪姿の富士山、西には富士山に次ぎ標高第2位の北岳を初めとする南アルプスが美しかった。

 三門下の門前町で若干の買い物をして帰った。日蓮聖人略伝という小冊子も買った。上人は1222年小湊の漁夫の家に生まれ、聡明さを惜しまれて12歳で近くの真言宗の寺に入ったが向学心止み難く、17歳で浄土宗・禅宗全盛の北条幕府の鎌倉で学び、次いで21歳から比叡山で10年間修行した。その間悟りを開き天命を知り、故郷に戻って31歳で日蓮宗を開宗した。開口一番「念仏無間 禅天魔 真言亡国 律国賊」と従来の浄土宗・禅宗・真言宗・律宗を邪教とこきおろし、釈迦尊の教えが最も純粋に伝えられる法華経に立ち戻って南無妙法蓮華経に帰依する以外に道はなく、邪教は天変地異・侵略を呼び国を滅ぼす、と布教したため、地頭を初め体制側を激怒させ、身を隠さねばならなかった。しかし両親だけはこの教義に帰依し、父は妙日、母は妙蓮、自らはその一字ずつを取って日蓮と名を改めた。以降一切この信念を曲げることなく、従って迫害の一生だった。

 故郷を追われて鎌倉で辻説法を始めたが石もて追われ、北条時頼に進言して退けられ、念仏信者の焼き討ちに遭い、幕府によって海中の岩に置き去りにされて満潮で溺れる寸前に漁夫に助けられて伊豆に移った。天変地異が続いたので日蓮迫害のせいかと恐れる人が出てご赦免となり、懲りずに46歳で再び幕府に進言して死刑寸前に至ったが、奇跡で一命をとりとめ佐渡に流罪となった。蒙古来襲などがあり同じ理由で再びご赦免となり、52歳で遂に身延に移った。当地の地頭波木井実長が、二十年前に鎌倉で日蓮上人の説法に感銘して以来の縁で保護の手を差し伸べたようだ。城の裏手の谷に庵を結び布教を続けた。多分厳しい気候のせいで間もなく病を得て、60歳で常陸での温泉療養を勧められ(東京の)池上( -->本門寺)で逗留中に旅半ばで入滅したと伝えられている。

 信念であり天命としても、これだけ自説を通した人は歴史上珍しい。弟子達も師に倣って節を曲げないため、日蓮宗はその後創価学会を含む何派にも分かれて互いに受け容れることがないようだ。       以上