うつせみ
2000年 8月20日

             日光山

 今まで日光山を知らなかった!! と思ったお盆休みだった。偶々母もワイフも栃木県出身とあって、昔から日光や戦場ケ原を訪れる機会は多く、陽明門など何度も見たし外人を案内したことも幾度かあったが、お恥ずかしいことに東照宮以外の日光山全貌をよく知らなかった。

 お盆は里帰りしたいワイフと交代で鬼怒川温泉に近い実家までドライブするのだが、お盆の東北自動車道は渋滞するからいつも飯能、小川、深谷、大間々、足尾、日光と、昔東照宮の警護に当たった八王子の千人衆が通ったに違いないほぼ直線の田舎道を北上する。日光市に入り東照宮前の渋滞を避けて裏道を抜けるはずが二荒山神社の駐車場に迷い込んでしまった。そこで変わり身速く2代将軍秀忠の造営になる本殿を見学したところで興味が津々と湧き、日光山全体を改めて見学した休日となった。

 日光山の2社1寺とは、旧別格官幣社の東照宮、旧国幣中社の二荒山(ふたらさん)神社という二つの神社と、比叡山延暦寺・上野寛永寺と並ぶ天台宗総本寺の輪王寺(りんのうじ)という一つのお寺である。二荒山とは男体山(噴火記録はない火山)のことで、古代の山岳信仰が基にある。熊笹をアイヌ語(私は今やアイヌ語=古日本語説を信じた)でフトラというので当て字で二荒山になり、後に仏教の補陀落(ふだらく)浄土に擬せられたという説を信じたい。奈良時代末期の下野国(栃木県)の修験僧勝道上人がこの地に寺社を開いた。やがて二荒を音読みにした「日光山」は山岳仏教の聖地となり、中世近世には武家の崇敬を集めた。時勢判断を誤り僧兵が鹿沼城にたてこもって秀吉の北条攻めに抗したため社領の大部分を失い、一時は存亡の危機に立ったが、東照宮創建で再び脚光を浴びた。

 1616年に没した徳川家康の遺言は、まず久能山に神葬し(久能山東照宮)、一周忌に日光山に「小さな堂」を建てて改葬せよというものであった。意外にも家康は一度も日光に来たことはなかったという。なぜ日光を指定したかについては、(1)関東の霊場として格式が高い、(2)信頼の厚い天海上人を1613年に日光山貫主に任命したばかり、という理由が挙げられているが、私は(2)は理由ではなく死期を悟って任命したに違いないと根拠もなく推察する。私が主要な理由と思うのは、八王子の丘から稀な晴天に北を眺めた景観から言うのだが、関東のどこからでも当時は見えたはずの日光の立派な山容が「関東八州の鎮守とならん」という家康の意図に相応しかったのではないか。「俺は見てるぞ」という訳である。

 幕府の願い通り家康は朝廷から東照大権現の神号を賜わり、秀忠による「元和の創建」で東照社が現状よりかなり小規模に1617年に造営された。石鳥居にかかる「東照大権現」の額は家康の義理の孫、後水尾天皇の筆による。1645年には朝廷の宣下により東照社は東照宮となった。3代将軍家光はとりわけ祖父を追慕し、20年忌を期して「寛永の造営」と呼ばれる大造替を行い、初めてほぼ今日の姿が出来上がった。家光自身も日光山に葬られ、その大猷院(たいゆういん)廟は東照宮をそっくりコピーしつつ、しかし東照宮を越えぬ配慮がなされているように見えた。今年は家光没後350年の遠忌に当たり、墓所の部分が350年目に初めて一般公開されていた。大変似た建物ながら東照宮は神社であるのに対し大猷院は仏式で輪王寺の一部である。尤も東照宮も鐘楼、薬師堂、五重塔のような寺の要素を持っている。明治4年の神仏分離までは寺と神社は不離一体だったのだろう。天蓋という四角い金属製の釣天井が拝殿に有れば仏式、無ければ神式だそうだ。仏式では護摩木や香を焚くから、中華料理店の厨房の天井と同様なものが必要とされたのではないか。確かに東照宮の拝殿には天蓋が無く、そっくりの大猷院の拝殿には天蓋があった。

 東照宮創建以来輪王寺の格式が上がり、皇族が「輪王寺の宮」を名乗って門跡となった。これが明治の初めに廃されて伏見宮家となった。輪王寺の本坊庭園だった逍遥園は苔が美しい回遊式庭園だ。本堂の三仏堂は三体の大きな仏像を祭った巨大なお堂である。護摩堂と言って願いを書いた護摩木を焚いて祈願するお堂もあり、まさに密教の雰囲気がある。

 やっと日光山の土地勘が少しできてきた。          以上