伊豆の踊り子
「伊豆の踊り子」は川端康成の出世作である。私があまり好きになれない醜悪な現実をえぐる作品が多い中で、珍しく清涼剤のように爽やかで私が好きな短編である。だが不思議に思った。東京から伊豆に行く特急は「踊り子号」だし、踊り子会館や踊り子饅頭など踊り子オンパレードの観光資源になっているが、文芸的に優れた作品とは言え、文庫本で僅か数十頁の小品がなぜ伊豆代表の文化として多数の支持を得ているのか?
少し考えた末の私の仮説では、多くの人は川端康成など読んじゃいないんじゃないか、(1)受験勉強で川端康成と伊豆の踊り子を線で結んだ記憶と、(2)映画の人気と、(3)ノーベル賞の威力と、(4)これで売るという伊豆側の観光戦略、が流行の源泉ではないかと思うに至った。
踊り子が通ったことになっている南伊豆の河津町梨本で、わさび田の源泉を分流して生活用水に使っているというY氏によれば、映画が一番の人気要因だという。私は恥ずかしいことに山口百恵主演の映画「伊豆の踊り子」の広告を知っていただけで、映画は一本も見ていないのだが、Y氏によると歴代の人気女優が踊り子に扮してきたのだそうだ。古くは田中絹代(驚いた!!)、吉永小百合、美空ひばり、内藤洋子(知ってますか?)、山口百恵、と来て今は途切れているが、今で言えば島袋寛子か上原多香子(字が合ってるかなあ)のはずだという。特に踊り子の全裸シーンが呼び物だったという。一高生の主人公(康成?)が踊り子の一行と旅をして、踊り子が今夜誰かに買われてしまうのではないかと悶々とした翌朝、露天風呂に入っていると、川向こうの露天風呂に入っていた踊り子が主人公を見付けて大喜びで、全裸のまま川岸に飛び出して手を振ったので、主人公は「大人びて見えたがまだ子供なんだ」とクツクツと笑い急に気が楽になるシーンである。後で数えの14歳と知る。ここは20歳の主人公の心理描写が主題で実に巧妙だと感心するのだが、なるほど人気女優の映像でいけばここがハイライトになるのかと納得した。
それにしても映画になるような短編だったかなあと気になり、岩波文庫を買って読み直してみた。康成の文章は美しい。これは架空の例だが、「箸が転がった」と書けば数文字で終わってしまう所を、転がった箸に思いを致して展開し読者に感動を与えたり、転がった箸に美を感じてそれを読者と共有できるという才能は、並大抵のものではない。平凡な日常の出来事に針小棒大の感動を得て語り伝える異才である。だから「伊豆の踊り子」は心を揺り動かす素晴らしい作品だが、美文と心理描写が映像にならぬ以上、サスペンスもクライマックスもない緩やかな時間の経過が映画になどなるはずがない、枕草子とともに最も映画化に適さない作品だという私の考えは、読了して再確認した。どうやって映画にしたのか今度はそこに興味が湧いてきた。VideoかDVDで映画がないかなあ。
「伊豆の踊り子」の旅は主人公が天城峠を登るところから始まり、天城を南東に下り湯ケ野から下田に山道を抜け、下田で別れるまでの、主人公と踊り子が相互に抱くプラトニックな淡い恋が主題である。しがない旅芸人とエリートで小金を使える一高生という階級差にも拘わらず、「エリートぶらない良い人」を演じる主人公が踊り子からは憧れの対象になる。今では地方公演の花形女優と大学生ではこのような階級差を前提とした恋は成り立たないし、想いを寄せつつも自制する社会規範まで変わってしまったから、上原多香子主演の映画が出来ないのも当然かも知れない。
勢い余ってAmazonからThe Izu Dancer(Edward Seidensticker翻訳)を買って読んでみたが、これは幻滅だった。まず表紙からして成人女性の盆踊りらしき写真があしらわれている。また原作の一部が省略されている。翻訳には原作の理解と翻訳言語での表現という2つの段階があると思うのだが、後者が原本の美文を伝えて見事なのに対して前者が不足しているように思えた。せめて私程度にでも日本文化を知る日本人に監修を頼んで文化的背景を加味すれば、もっと原作の感動を伝えるよい翻訳になったかも知れないのに。こんな翻訳がまかり通っていてよくノーベル賞が貰えたものだ。それとももっと良い翻訳が他に一杯あるのかな。 以上