うつせみ
1996年 8月 30日                                                   古地図

 欧州で書かれた古い世界地図の歴史を見ると面白いことが判る。


これは次のような文化の発達を如実に示している。

 今でも我々は次のような対話をすることがある。 「君の田舎の方では地元だから備前焼をよく使うだろう」「私の田舎は山口ですから備前岡山からは遠いですよ」 この会話の背景は上記(2)の心理で、よく知らない人の頭の中では中国地方が縮小されていて、山口も岡山もほとんど隣のように思えてしまうのだが、或る種の山口の人にとっては山口周辺が世界の大部分で岡山は異国ほど遠い存在である。欧米で日本人は中国や韓国のことをよく知っているはずという前提での話を聞いて怪訝に思うこともあるし、日本人は山が緑で車は左が当たり前と思いこみ、そうでないのを見て驚くことも多い。

 仕事でも似たようなことがある。契約の専門家にとっては契約書の中のshallとwillの使い分けが非常に大事なことのように見え、(事実大事なことである!) 例えばWindows 95の次に新OSが出た時の事業的影響への配慮が不足し勝ちである。皆があの人は契約の専門家であり、契約の専門家に過ぎないと思っている限りこれは何の問題もない。営業の専門家や技術の専門家の意見を別途徴すだろうから。しかしもしこの契約の専門家が部長になってしまったらどうか? 部長は専門家では困る。視野が広くバランスのよいGeneralistであることが求められる。上記の(4)であることが理想だが、生身の人間にそれは無理とするなら、せめて(3)でなければなるまい。自分の視野を世界の中心と見る(2)であっては絶対困る。

 私は技術屋を何十年もやってきたから、技術は好きだし比較的よく知っている。部下が案件を持ってきた時に技術面で指導できることは多いし、それが私の大きな貢献であるとも思う。しかし正直に言えば「何だそんなことも知らないのか」と言えることは快感でもある。特に土地勘のない分野で日頃口出しできないフラストレーションが溜まっている時に、その中に自分が口を挟める分野を発見すると嬉しくなって突っ込んでしまう。これは人間誰しも持つ自然な習性である。自然な習性ではあるけれども、人の上に立つ者の態度としては極めてまずいことも知っている。「こんな技術を知らないのか」と言った時、「上に立つほどの人がそんなことまで知っているのか、すごい!」と思ってくれるよりも、「そんな細かいことは 別途やって貰って、この席ではもっと大事な大局的なことを決めるのがあなたの仕事でしょ」と思われる確率の方が大きいことも判っている。でも水戸黄門の「これが目に入らぬか」の快感は抑え難い。「自分は快感のためにやっているのではない。これを自分が直さなければ直す人は居ないという使命感だ」と思っているのだか、よくよく自分の心理を分析してみると水戸黄門の快感がその背景にあることに気付き愕然とする。

 一番いけないのは視野の偏りのために判断のバランスを欠き、自分の視野が世界の中心になってしまうことである。つまり(2)ではなくせめて(3) であることが必須である。次に例え(3)であっても個人的な快感に酔いしれて、尊敬の代わりに白けを得てしまうことである。これが自分の最大のリスクだと思って日頃心しているのだが、頭では判っていてもなかなかそうならないのが人間の弱い所である。 以上