うつせみ
2000年 5月13日

              東海道

 クイズは如何? 安藤広重(=師匠の名から歌川広重とも)の錦絵(=多色刷りの浮世絵)「東海道五十三次」は有名だが、全部で何枚あるか?(A)五十三次だから53枚に決まっている。(B)53行程だから植木算で54枚ある。(C)五十三の宿場があるのだから日本橋と三条大橋を加えて55枚になる。白状すれば私はこの基本的常識を持っていなかった。

 安藤広重の他に、それより早く葛飾北斎も「東海道五十三次」を描いている。小布施の美術館で見たことがある。「東海道五十三次」の錦絵は一体何種類くらいあるのか? (A)北斎・広重とその追随者でおよそ10種類はある。(B)50種類くらいはある。(C)何と150種類もある。

 府中駅の一角で本のバーゲンセールがあり、文庫本サイズの写真集「浮世絵 大東海道」上下2冊('98 京都書院発行)を200円で買って眺めた所によれば上記クイズの正解は(C)(B)である。1804年頃描いた北斎は、正確にはおまけを1枚つけて56枚シリーズとしたが、町の数では53の宿場と両端で55である。北斎自身も4種類描いており、広重は1833-34年に代表作「真景 東海道五十三駅 続画」、版元の名から通称「保永堂東海道」を出して以来、趣向を変えて12種類も出版している。以降二代広重・三代広重を含む数十人の絵師が明治時代前半にかけて約50種類の東海道の錦絵を出している。宿場の風景もあるが、美人画、役者画、幽霊画など、五十三次は二の次でシリーズの売出し戦略になっているものや、狂歌シリーズや弥次喜多道中などもある。

 五十三次を列挙すれば、(江戸日本橋)、品川、川崎(本当に川の先の河口だった)、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢(遊行寺中心に)、平塚、大磯、小田原、箱根(関所)、三島、沼津、原(沼津市)、吉原(広重は葦の原の絵、富士市)、蒲原(かんばら町、広重は蒲の原の絵)、由比(町)、興津(清水市)、江尻(清水市)、府中(静岡のこと)、鞠子・丸子(まりこ、静岡市)、岡部(町)、藤枝(ふじえだ市)、島田(市)、(大井川を渡り)金谷(町)、日坂(にっさか、掛川市)、掛川(市)、袋井(市)、見附(磐田市)、(天竜川を渡り)浜松(広重は浜の松の絵)、舞坂(町)、(浜名湖を渡船)荒井・新居(町、新居関)、白須賀(湖西市)、二川(ふたがわ、豊橋市)、吉田(豊川の橋中心で豊橋と改名)、御油(ごゆ、豊川市、鉄道駅排斥運動に成功)、赤坂(音羽町、遊女多し)、藤川(岡崎市、東の本宿から移行)、岡崎、池鯉鮒(ちりゅう、知立市、国鉄駅を排斥したが後に名鉄で活性化)、鳴海(なるみ、名古屋市緑区)、宮(熱田神宮のこと、埋め立て前は海岸だった。七里の渡しで船に。)、(海路経由)桑名、四日市、石薬師(いしやくし寺中心、鈴鹿市)、庄野(鈴鹿市)、亀山、関(町、鈴鹿の関)、坂下(関町、鈴鹿峠南麓)、土山(町)、水口(みなくち町、野洲川沿い)、石部(町)、草津(市)、大津、(京三条大橋)

 三重県鈴鹿峠経由は現在の鉄道とも名神高速とも異なるが、さすが国道1号線はこのルートになっている。10世紀初にはこの道であったのが、鎌倉幕府が12世紀に鉄道と同じ関ヶ原経由に変更し、徳川幕府が鈴鹿峠に戻した。また10世紀には今の御殿場線から相模国府の海老名経由で武蔵国府の府中に通じていたが、鎌倉幕府が箱根越えの海岸ルートに変更した。因みに鉄道の東海道本線は当初御殿場線であったが、1934年に丹那トンネルが出来て熱海経由となった。熱田神宮は今は遥かに内陸だが、錦絵によれば船の並んだ海岸に鳥居が立っている。ここから木曽川・揖斐川を避けて海岸に城が建つ桑名まで船で渡るのが正式な東海道であった。

 皇女和宮と結婚して公武合体を進めた14代将軍徳川家茂(いえもち)が壮大な行列で上洛した時の様子を1863年に16人の絵師が分担した錦絵163枚シリーズ通称「行列東海道」は、宿場以外も描き芸術的にも歴史資料的にも素晴らしい。数寄屋橋は海岸の河口にあり、札の辻も海岸のT字路だ。由比ガ浜には鶴が飛び、江ノ島には海女が居た。瀬田唐橋の中間点には松林がある。誰だ旅館など建てたのは。三条大橋からは大文字が見える。そんな日本が僅か1世紀半前にはあったことが面白い。   以上