うつせみ
1996年 6月16日

           梅雨の八ケ岳

 梅雨時の八ケ岳中腹は雲の中である。雲の中から見れば霧である。ようやく生え揃った唐松の緑の間を或る時は濃く或る時は薄く霧が流れ、幻想的な雰囲気を漂わせる。日が高く上がると静かになるはずの鳥達が、こんな日には正午頃になっても鳴き続ける。草木は短い高原の夏の間に一年の営みを完了しようと、この時期にほとんど一斉に花開き、たまの晴れ間には特に美しい。

 主役はあやめの原種である。林の中の草むらに青紫に密かに咲く。品種改良された色とりどりのものよりも一際いとおしい。多くは人跡稀な草むらの奥深く咲き、人の目に触れることなく散っていくのが奥ゆかしくもあり哀れでもある。

 ズミと現地で呼ぶコナシは、木全体が真っ白に見える程枝一杯に花をつける。標高によって著しく花期が異なるから、任意の時に花が見られるが、 花期は短いので特定の木の花を見ることはサラリーマンには容易ではない。 秋には直径 8mmほどの梨が無数に実るが、よほどまずいのか鳥は最後まで口をつけない。しかしジャムになるという話がある。

 ズミの白とコントラストを成すのが、オレンジ色のヤマツツジと、少し小ぶりのレンゲツツジで、最盛期には山が燃えんばかりとなる。山で自生し繁殖するには、このオレンジ色が虫を呼ぶ必要があるのだろう。

 スズランもこの時期に咲く。針金のように細い花茎の先に鈴型の可愛らしい花が連なる。名前にも拘らずユリ科である。スズランは林の中でもなく外でもなく周辺の半日陰が好きらしい。家畜が食べると毒だというが、 この姿からは想像し難い。某料理家が、スズランの花を入れたロマンチックなリカーの作り方を雑誌に掲載して慌てて回収したことがあった。

 スズランと対を成すのがイカリソウである。スズランと同時期に同様な場所にほぼ同じ背丈の細い花茎に咲く。2cmほどの赤紫の花が角を張って船の錨型になる。

 イカリソウよりもう少し日陰を好むのがベニバナイチャクソウで、垂直 に立ち上がったピンクの花茎の回りにピンクの花がつく。

 スズランとけんを競うようにユニークな形状のアマドコロが咲く。40cmほどの茎が斜めに弧を描き、葉が等間隔に互生する。葉の付け根ごとに直径5mm長さ10mmほどの円筒形の白い花が等間隔に十個ほど連なるのが可愛らしい。これと似た花をランダムにつけるのがチゴユリである。

 今年の5月連休に地元の植木屋さんから石南花(しゃくなげ)を買って移植した。植木屋さんと言っても行楽期にだけ道路沿いに植木を並べる老夫婦である。日差しに負けないように遮光膜で木全体をスッポリ覆った。 花を咲かせ過ぎては木が弱るという忠告に従い、心を鬼にして膨らんできたつぼみを三十個ももぎり落としたが、鬼になりきれず二十個ほど残ってしまった。色付き始めたつぼみは鮮やかな赤だったので、老夫婦の間違いで西洋石南花の血が混ざったのを買ってしまったのではないかと心配したが、幸い開いた花は日本固有天然種の上品な薄紅色の花であった。残したつぼみが全て開くと、美人を座敷牢に入れたようで気の毒になり、梅雨の間だけでもと遮光膜を取り去ってしまった。石南花の花は不思議なことに一つのつぼみから複弾頭のように複数の花が開くから、二十個でも木全体が花になったようである。

 伊那に石南花寺と通称されるお寺がある。庭から裏山にかけて石南花の銘木が数十本あって、微妙に異なる色で一斉に咲くと極楽浄土のようだ。

 なぜか伊那には藤の美しいお寺が少なくとも三つはあって、首都圏・名古屋方面からの観賞の客が訪れる。数百年の古木もあり、藤棚から150cm ほどの花房が簾のように下がり、そよ風に揃って揺れる様は形容し難い。

 しかしもっと感動的なのは野生の山藤である。八ケ岳の山道に藤の花びらを見つけると頭上を見上げるのだが、必ずしも花房が見つからないから 面白い。足元に藤の木を探し蔓を目で上に追っていくと、若葉に隠れた高い位置にある花房にたどりつく。

 花びらを過ぎ見上げれば藤の花