うつせみ
2000年 3月18日

             宇治十帖

 関西で2時間空いてしまい、サボリ心で学生時代以来初めて宇治平等院を訪れた。既に十円硬貨の平等院の模様が辛うじて記憶のよすがになっていたが、緑豊かな平等院の正門で40年前の記憶が戻ってきた。

 阿字池が一部工事中だったが、それでも池の大部分は優美な建物を映し松の枝越しに阿弥陀堂(鳳凰堂)の屋根の鳳凰2体が鈍く光り、改めて世界遺産の貫禄を感じた。平安時代に「極楽いぶかしくば(様子を知りたければ)、宇治の御堂を礼すべし」と言われただけのことはある。しかし近づけば建物の塗装がみすぼらしく剥げて荒れ寺の印象もあった。

 京都御所から15km南に位置する宇治は平安時代に、山水の風光明媚な貴族の別荘地帯だったそうだ。平等院も藤原道長の別荘だったのを息子の頼通が1052年に寺に改め、定朝作の阿弥陀像を祭る阿弥陀堂を建立した。以来栄華を誇った藤原一族の氏寺として栄えたが、京都盆地の唯一の開口部という戦略的地形が災いして何度も戦火に遭った。

 水量の豊富な宇治川を歩道橋で渡り東岸の旧跡を歩くうちに源氏物語ミュージアムに迷い込んだ。そうだった、源氏物語の宇治十帖の舞台だった。源氏物語をまた読んでみようかと妙な好奇心を起こした。

 高校時代に与謝野晶子訳の現代語の源氏物語は全巻読んだ覚えがある。最近瀬戸内寂聴女史の現代語訳が評判だから、これでもう一度と一旦は思ったが、結構高価であることを知り、不遜な考えを持つに至った。全巻は無理としても宇治十帖くらいなら、原語で読めるのではないか、日本人なんだから千年前の日本語とはいえ独語よりは楽なんじゃないかと。源氏物語はおよそ1010年頃女官紫式部によって完成し54巻から成る。大きく分けると、光源氏の華やかな恋物語、年老いて紫の上にも先立たれ妻にも裏切られた無常の源氏、その妻の不倫の子「薫」の恋物語、という3部作である。その最後の10巻は宇治を舞台とし薫が主人公の物語で宇治十帖と呼ばれている。源氏物語は印刷技術も無く著作権の確立もなかった時代だから後世の人が勝手に書き換え書き加えて多種多様な写本が伝えられ、鎌倉時代には63巻にまで膨れ上がり、どれが原作か判らなくなってしまったらしい。それを藤原定家が整理してそれらしき形にまとめたのが段々に正本として扱われるようになり今日に至っている。

 岩波文庫(黄15)山岸徳平校注の源氏物語全6冊のうち、最後の2冊を購入し、日夜持ち歩いて主として電車で読んだ。目に留めた米人にそう言ったらShakespeareを読んでいるようなものだな、と言うので、1600年前後のShakespeareより600年も古い、私にすら源氏物語の日本語の方がShakespeareの英語より難しい、と一寸強がりを言った。独語の本とは違う難しさがあった。まず古語辞典は2-3度引いたが受験勉強のお陰で辞書参照は全然少なく電車で読むには便利だ。しかし独語は辞書を引けば意味は分かるのに対して、「あはれとおぼほし給ふ」という言葉は分かっても、誰が何を哀れと思ったのかがピンと来ないという多分日本語特有の難しさである。従って注釈には大変助けられた。原文だけでは私には歯が立たない。主語が小文字で補ってあり、登場人物の関係が系図で示してある。同一人物を同一名で呼ぶのを憚る如く、官名、親族名、渾名、本名など色々な呼び方をするから注釈無しでは訳が分からなくなる。

 多分この時代には「歌頭は、うち過ごしたる人のさきざきするわざを、えらばれたる程、心にくかりけり」(経験を積んだ人がなる歌頭に若い薫が選ばれたのは素晴らしい)という引用のままが口語だったのだと思う。この通りにしゃべる場面を想像すると面白い。また所々に登場人物の和歌が数多く出てくる。和歌一つをひねり出すのも凡人には大変だが、それを多数盛り込んだ筆者の筆力に感嘆せざるを得ない。女流作家だからか、登場人物は何時も恋をし、嫉妬、音曲、手紙、和歌、行事に忙殺されている。一体生産的な仕事をしていたのだろうか、少なくとも大衆収奪の上にこそ、貴族はかくも優雅な生活が送れたのだと思った。ただ心理描写は素晴らしく、人間は千年経っても変わらないことを悟った。

 千年前の公達の心の襞を感じた数週間であった。     以上