われは海の子
われは海の子という小学校唱歌があった。浜辺の松原の一角のそま家だった生家を思い出して詠った歌詞だった。最近伊豆に通うようになり、海風に潮の香を嗅ぎ白波ごしに島影を望めば、我ながら意外にも血が騒ぐのを覚え、「われは海の子」だったのかと思い始めた次第。
故郷の話は老化の証拠という説に怯まず続ければ、生まれは杉並ながら、幼稚園から高校までは瀬戸内海に面した山口県光市で過ごした。特に幼稚園・小学校時代は家のすぐ前が浜という環境で育ち、学校から帰るとランドセルを家に放り込んで海に飛び込んだ。山紫水明の地でのびのび育ったお陰で、今までのところは健康で来られたのかも知れない。
瀬戸内海に島が多い理由は、陥没地形で山のテッペンが島になったからだ。その山は火成の上に形成された水成の隆起平坦面が浸蝕されて山が残ったのだ。だから山も島も岩がちである。深成火成岩の花崗岩が多いが、秋吉台のように動物性の石灰岩や、火山性の玄武岩なども散見される。光市が面する周防灘にも、海岸から程近い位置に島が幾つかある。その一つ普賢山が余りにも陸地に近いために砂嘴が形成され陸地とつながってしまった。普賢山の先にも砂嘴が伸びて松で覆われた。その形から象鼻ケ岬という。この岬で囲まれた天然の良港は、朝鮮征伐途上の神功皇后が手を洗ったので御手洗湾という。いくら掘っても砂の砂嘴の上に、古来沿岸航路の中継地集散地として栄えた港町が、室積町(ムロヅミ)で光市の一部となった。室のように囲まれた静かな海「室ツ海」である。
この御手洗湾に面した浜辺の家で私は育った。10分も歩いて砂嘴を横切れば、花崗岩の白砂が松原に映える七里ケ浜が周防灘に面している。また砂嘴上を10分も歩けば普賢山に達し、その湾側の麓の平地に古刹普賢寺があり、山口女子師範学校と我が母校付属小学校があって、後に新制付属中学校もできた。中学校で体力に自信ができ始めた或る冬は、毎朝授業前に普賢山に駆け登り縦走路を駆け抜けて足を鍛えた。普賢山南面の周防灘側は、波に洗われた垂直の岩壁になっていて、周辺には珍しい亜熱帯植物が繁茂している。僅かに形成された砂浜は周辺の岩の色と同じ黒砂で、白浜が当然のこの辺りでは珍しいため敢えて黒浜と呼ばれる。高校卒業を控えて文科系に進むか理科系にするか迷い続けていた私は、ある日人気の無いこの黒浜に独り寝そべって、東京大学理科一類(理工学系)への出願を決心した。この普賢山の周防灘側の様子と、伊豆城ケ崎海岸とが酷似しているために私の血が騒ぎ始めたのかも知れない。
黒浜に隣接する岩壁は鼓ケ浦と呼ばれる。岩壁が浦ではおかしいが確かに地元ではそう呼んでいた。黒浜を鼓ケ浦と呼んだのが何時しか岩壁の名にシフトしたのかも知れない。波の浸蝕が岩の割れ目に沿って進み、海が岩の間に20-30米も貫入した。そうなると益々波の破壊力が集中するので、最深部に洞穴が出来た。そこに打ち付ける波が鼓の音を発する訳だ。私は鼓の音をBGMとして自分の将来を思い悩んでいた。
伊豆城ケ崎海岸には、全行程6時間半の自然研究路という名のハイキングコースがある。海岸の散歩道かと思ったら大間違いで、岩壁を「巻き」あるいは海に突き出た溶岩流を乗り越えるために、上り下りが激しい岩道で、軽い登山の覚悟が必要である。しかし十二分に報われる。海岸の岩場には玄武岩の六角柱状の節理が見える。地元では俵石という。潮騒と砕ける波音が懐かしい。鼓の音さえ聞ける場所がある。水平線に伊豆諸島が浮かび、遥かに貨物船が微かに進む。海風にざわめく木々は亜熱帯性の種属が多い。つい普賢山の縦走路を駆け抜けていた自分に戻って走り出そうとすると、年を考えなさいとワイフが止める。
あらゆる生物の生まれ故郷は海中だから海への憧れは生物の遺伝子だ、羊水の成分は古代の海水と同じだ、という説がある。ワイフに「海育ちのあなたは海を見ると胸がキュンとするでしょ」と言われて、最初は「懐かしいが胸キュンほどではない」と答えていた。だから「われは海の子」という自覚を発見した時には驚いた。生物共通の遺伝子の成せる業か、単に幼児体験の刷り込み作用なのか、不思議なことではある。 以上