うつせみ
1997年 4月20日

               御開帳 

 今年丑年は5月末まで善光寺の御開帳とあって、物好き夫婦(特に一方)は昨日長野ICまで八王子ICから240 km ¥5,350のドライブをした。東京が雨だったせいか晴天にも拘らずそれほどの人出ではなかった。

 善光寺の御本尊は654 AD孝徳女帝の勅で秘仏となり以降庶民に公開されたことはないが、御本尊を模して鋳造された身代わり的な前立(まえだち)本尊というのがあって、西洋数学的な数え方では6年に一度、第1年から数え始める仏教流では7年に一度4 - 5月に公開される。本当は内陣に参詣しないと近づけないのだが、 2時間待ちと言われて諦めた。しかし人影の隙間から確かに見えた。今回は入らなかったが、本堂直下に暗闇の地下道があり「戒壇めぐり」と称して手探りで御本尊直下にある「極楽の錠前」に触れると御本尊と仏縁が結ばれる。私共は先年経験した。

 前立本尊の掌を前にした右手から五色を撚り合わせた「善の綱」が伸びて、本堂前に建てられた回向(えこう)柱という「奉開龕前立本尊」と墨書した40 cm角ほどの柱に結び付けられている。「龍」の上に「合」を書いた「龕」の字はちゃんとJIS第2水準にあって、厨子を表わす字だそうだ。前立本尊と一体となったこの柱に触れることで仏と縁を結び極楽往生できる。ワイフも私もこれで極楽往生は確実となった。ついでに回向柱の25 cmほどのミニチュアレプリカを求め、また新築予定の建物に瓦を寄付して名前を墨書してきたから、間違い無い。

 善光寺縁起によれば、阿弥陀如来と仏縁の深い天竺の長者、百済王と輪廻を重ねて飯田市座光寺に生まれた本田善光という人が、難波の堀を通りかかった時に水から飛び出して善光におんぶされた阿弥陀如来像を御本尊として祭ったのが飯田の元善光寺で、その後長野に移ったのだという。なお仏教伝来552 ADと歴史で習ったが、その時伝来した仏像がご本尊だという。

 歴史的には奈良時代以前にこの地方に入った帰化人の持仏が信仰を集めたのではないかと学者はいう。常に地方の庶民の寺であり続け教義論争にも宗派争いにも関係しなかったため、宗派を包み込んだ存在になっている。今全国に212個所の末寺があるが、83寺は浄土宗、39寺は天台宗、その他曹洞宗や臨済宗の寺もある。本山でも仁王門手前の大本願という寺院は浄土宗で、山門手前の大勧進という寺院は天台宗である。 「牛に引かれて善光寺」という言葉は知っていたが意味を知らなかった。小県(ちいさがた)郡の不信心のおばあさんが、布を晒すうちに牛が布を角に引っかけて走り始め、追いかけて善光寺に参詣してからは良いおばあさんになったのだそうだ。小県郡とは上田市の辺りだから、牛もおばあさんも丁度マラソン程度の距離を追いかけっこしたことになる。なお小諸から千曲川を挟んだ小県郡の山の上にある布引観音にも同じ伝承がある。

 川中島の合戦で善光寺は両軍のせめぎ合いの舞台となり、武田信玄は御本尊を持ち帰って甲府の東に甲府善光寺を建立した。上杉謙信も寺宝を持ち帰り上越市に浜善光寺を建てた。武田を滅ぼした織田信長は御本尊を移して岐阜善光寺に祭ったが、数ヶ月後に本能寺の変で横死した。徳川家康は御本尊を甲府善光寺に戻したが、豊臣秀吉はこれを取り上げて京都に祭った。しかし信玄、信長の横死と同様秀吉の病は御本尊を動かした祟りだという噂が広まり、北政所が1598年に長野に送り返した。

 戦火や失火で何度も焼失した善光寺を再建するため柳沢吉保が甥を善光寺に送り込んで堕落僧のリストラを断行する一方、日本全国で出開帳と称して寺宝を公開して資金集めを行った。この時の出張用の御本尊が前立本尊である。その甲斐あって1707年に今の本堂が完成した。

 長野では不定期に御回向の名で御開帳がなされてきたが、門前町から御開帳を開催して生活を助けて欲しいという請願書も残っていて、極めて商業的な資金集めの要素が強かったようだ。明治からほぼ6年に1回という慣習ができ、昭和24年から丑と未の年にとなった。

 道路脇に駐車した長野駅東口まで善光寺からだらだらと下る坂を、「おやき」をほおばりつつ歩きながら考えたのだが、あと294日と表示されたオリンピックへの準備も善光寺の歴史も、難しい教義がない分、拠り所を求める庶民の心を巧みに捉えた仕組みのように思えてきた。  以上