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− 今日の読書 −

藤縄謙三 著

「ギリシア神話の世界観」(新潮選書)

1971年、新潮社

1998年 5月 3日

  ギリシャ神話には具体的な史実に基づく部分がかなり多く含まれているのであろうと思う。だからこそ、これほどダイナミックで生き生きとした描写が可能であるし、我々を感動させるのである。そして、そういう描写を通じてギリシャ神話は我々の文明に鋭く厳しい批判を突きつけている。ギリシャ神話は文明に対する反省と警告の物語である。

パンドラの瓶(かめ)

    それまでは人類は地上で何の災害も無く、
    苦しい労働も無く、また人間に死をもたらす
    厄介な病気もなしに生きていたのだ。
    ところが、この女(パンドラ)が手で瓶の大蓋を取って撒き散らし、
    人間どもに悲惨な難儀を企んだのだ。
    ただ希望だけが飛び出さずに、
    不壊(ふえ)の館ともいうべき瓶の中で、
    口の下に留まっていた。
    群雲あつめるゼウスの御心によって、それ以前に
    彼女が瓶に蓋をしてしまったから。
    しかし、その他の無数の悲惨なことが、人間界をさ迷い、
    大地も海も災難に満ちているのだ。
    沢山の病気が昼も夜も自動的にさ迷い歩き、
    無言で人間どもに禍をもたらしている。
[112から113ページ]

  まだ人類が文明を持たなかった頃、まだ人類が野生動物であった頃、我らは「今日を生きる」ことが全てであった。明日のことを考える余裕がなかったからではない。明日のことを考える必要がなかったからである。腹が減ったら物を食い、眠くなったら眠る。猛獣に追われれば逃げ、嵐が来たら雨風をよける。子供が育たず死んでしまうこともよくあること、悲しくはあるが致し方ない。我らは自然の一部。あるがままに生き、なすがままに身を委ねる。諦めではなく、それが摂理であった。

  やがて世が移り文明が興る。農業が発達し人口が爆発的に増える。ちょっとした気候変動にも大量の餓死が出る。戦争が起きる。技術競争が活発化し、権力が肥大する。欲望が渦巻き計略が盛んになる。我らは今日のことだけでなく明日のことも考えなければならなくなった。不安を感じ、不満を覚えるが故に、我らは「希望」なしでは生きられなくなった。

  宗教と道徳の時代はこれを素地として迎えられた。我らがこころの平安を取り戻す方法には2つがある。1つは文明以前の心に帰ることである。もう1つは文明を前提とした上で、心の平安を乱すもとは我らの欲望だとしてこの欲望を規制することである。歴史は後者の道を選んだ。もう欲望が膨らみすぎて文明以前に戻れなくなっていたからである。心の平安をおかしくしている本当の原因を除くことを諦めて、「その原因は我らの欲望、迷いにある」とする教えは、権力の側に大変都合良かった。だが一般民衆には余計にストレスが溜まるだけであった。ここで処方されたのがさしたる実体もない「希望」である。御利益(ごりやく)ともいう。しかしともかくこの政策は成功を収めた。途中いろいろなところで綻びはあったものの、そして宗教・道徳の限界が言われているものの、なお我らはこれらに頼るしかなかったのである。

  次なる時代がどうなるのか、誰も知らない。宗教・道徳が頼りにならない混乱の時代を経て、新たな秩序に向かうのか。それとも破滅に向かうのか。いずれにしろ、「まだここに希望が残っているよ」という手合いの口車には二度とだまされてはいけない。

  文明の時代はもう終わりなのかもしれない。一時の徒花として。
 


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