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− むく、向く、東、昔、… −
1998年4月4日
2009年4月17日追加
向く
対象を正面から見る。
「犬が西向きゃ尾は東」と言うが、「向く」という言葉は元来は「前方」とか「進行方向」とかではない。「相(あい)対する」という言葉に近い表現である。
向かう
向き合う
立ち向かう
向きになる
迎える
東
日・向か・し(風)から方角の東の意味になったという。しかしこんな説明で納得してはならない。太陽は東にもあるが、南にだって西にだって巡るわけである。それが何故東という特定の方角の意味になるのか、明確な説明が必要である。
よく太陽を擬人的に顔の絵で表現することがある。この顔の向きを私たちは普通どんな場合もこちら、つまり私たちの方を向いた姿に描いている。
古代の日本人、少なくとも「東」という言葉を作り出した頃の日本の人々は、太陽の顔の向きが進行方向に向いていると考えていたと、私は考えている。つまり、太陽は東の地平から出たときは私たちに顔を正面から見せているが、南の空を東から西に向けて移動しているときは西向きの横顔を私たちに見せ、西の地平に沈むときは私たちにその後ろ姿を見せていると考えたのだと思う。
そうであればこそ、私たちは太陽の尊顔を正面から拝むことが出来る方角つまり「東の方角」を「日向かし」と呼ぶことに理由を見つけることが出来る。
振り向く
昔
これは「向かし」を時間的に捉えたもの。時間が向かう方向を普通に考えればむしろ「未来」の意味になってもよさそうであるが、実は「過去」のことである。なぜか?
時の流れを擬人的に表わすのに、過去から未来に向けて進み行く1人の人間をイメージしてみる。この人の顔は未来を向いている。さて、我々がこの人と同じように歩くと、つまりこの人の後ろをついていくと、私たちは時間の後ろ姿を見ることになる。これに対し我々が逆向きに立ったとすると… 過去から進んでくる時間を正面から見ることが出来るのである。
「昔」とは、過去の現実を正面から見据える姿勢を表わしている。
未来はいつも後ろ姿しか見せてくれない。
南
「みん(右)・な(の)・み(耳)」の意。つまり東から昇った太陽が南の空に居るとき、太陽は進行方向である西を向いている。そのとき太陽はその右側、すなわち右耳を私たちに見せていることになる。
なぜ右が「みん」なのか? これは全くの当てずっぽうだが、「右」のもともとの語幹は ming であり、連体形が ming-na → mina, 名詞形が ming-i → migi と変化したのではないかと思う。
西
「往に・し(風)」から「い」が取れた。つまり太陽の去り行く方向の意。
いにしへ
「往にし・へ(方向)」つまり「過ぎ去った時」の意。
ここで、「昔(むかし)」と「いにしへ」について一考。
過去から未来に向けて一本の道が通っているとして、私たちは生まれてから成長する過程、そして老いていくまでの間、この道を歩み続けることになる。この道の上には、生まれてから現在に至るまでの私の過去の残像が残っていると考えよう。この残像はすべて未来の方向を向いている。つまり、赤ん坊時代の私の前を幼年時代の私が歩き、幼年時代の私の前を少年時代の私が歩き、その前を青年時代の私が歩いている。
現在の私が今振り返ったとしよう。すると、私は過去の私と正面を向き合うことになる。これが「昔(むかし)」の意味である。
さて、私たちの先人たちはどこを歩いているだろうか。既に前方を歩いている。遠い昔に生きた人たちは、私よりもはるかに先を歩いているに違いない。その人たちは私から見ると前方にいて、私はその後姿しか見ることができない。これが、「往にしへ(いにしへ)」の意味である。
こうしてみると、「昔」とは自分の体験としての過去、「いにしへ」とは伝承としての過去ということができるのだろうか。
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