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− 「ら抜き」のこと −

2001年1月14日

1984年1月12日 読売新聞「木曜ロビー」:「れる」の使用について

会社員 立松幹雄 31
意識の変革につれ変わっていく言葉

 先月23日付の田村容子さんと今月4日の槙山綾子さんの「れる」多用に対する意見に反論したい。お二人の主張は、五段活用以外の活用の動詞に「受け身・尊敬・自発・可能」の意味を持たせる時は「られる」で受けるべきなのに、昨今「可能」に限り五段活用の動詞と同様に「れる」で受ける例が多く、これは学校文法、あるいは標準語の常識に反している、ということだと思う。
 だが、私は正しい表現の基準は意思伝達の的確性だと思う。「可能」に限って表現が変わったのは、従来の受け身的な「可能」から主体の意思を鮮明に表現する能動的な「可能」へ脱皮したいという欲求があるということであろう。言葉は生きており、意識の変革があれば言語も変革する。


1996年1月25日 東京新聞「発言」

会社員 立松幹雄 45
 『見れる』表現なぜ違和感?

 例えば「見る」という動詞に自発・受け身・尊敬・可能の意味を付加する場合に「見られる」とすべきところをしばしば「見れる」という表現が見られる。
 これを一般に「ら抜き」という。最近の論調は、この「見れる」を「見る」の可能動詞形(「読む」に対する「読める」に相当)と見て、可能の意味を明確にする表現ととらえるものが多い。私もこの立場を支持する。
 一方、「改まった場での使用は認知しかねる」との公式見解は、「改まった場では露骨な可能表現はすべきでない。あいまいなことが日本の伝統的な奥ゆかしさ」ということだろうか。
 「ら抜き」は、もう何十年来「最近の日本語の乱れ」の一つとして議論されている。何度も繰り返される議論を見聞きするごとに、次のような疑問がわいてくる。
 それは、「読む」などの五段活用の動詞では可能動詞形「読める」が一般化し定着しているのに、「見る」などの場合には「見れる」のような可能動詞形にまだ違和感があるのはなぜか、ということだ。

(横浜市戸塚区)

 「見る、着る」のような上一段活用、「捨てる」のような下一段活用は、活用と言いながら「一段」というのはおかしい。これらは「ラ変」というべきではないか。すなわち、

未然形が2通りがあるが、
  「−」…見ない、着ない、などの場合
  「ら」…見られる、着られる、などの場合
と使い分ける。
 つまり、自発・受け身・尊敬・可能の助動詞は五段活用につく場合も上一段活用や下一段活用につく場合も「れる」との説明。
 一方、「ら抜き」の見れる、着れるはもうひとつの未然形「−」に「れる」が付いたとの説明。


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