2012年5月28日〜30日まで岩手県山田町に行ってきました。(つしのブログ参照)
長年お付き合いのある保育園の役員、永村さんが骨を折ってくださって、可能になった上演です。感謝です。
坂を上っていくと 突き当りに船越保育園がありました。
「あっち あっち」 「ふふふ」
「どろどろどろ〜ん おばけだよ〜ん」 「たいやきだよ」「わーい たいやきだぁ」
朝5時に家を出発。池袋、大宮、盛岡、宮古、と乗り継ぎ、レンタカーで山田町にやってきました。
町は、報道で見知ってはいたけれど、中心部は土台だけを残し、きれいさっぱり跡形もない。
雑草がコンクリートの隙間から、ぐいぐいと伸びている。情報を整理できないまま、とりあえず保育園へ。
ちょうど子どもたちはお昼寝中で、園は静かです。
山田町に親戚があり、こちらでの上演を手配してくださった吉田さんと合流。何でも、こちらの園長さんとは、
遠い親戚にあたるとか。ながむら氏とは、フェイスブック友達。今回は、友達の友達は友達だ作戦。
もう、みんな友達です(*^_^*)
ながむら氏、吉田さんにも手伝ってもらって、準備開始です。今回は、最低限を宅配したため、
いつものような舞台は組めません。照明もマイクもバックの幕もなしです。前げこみだけの簡素な舞台。
あいにくの雨で、暗めですが、ドンマイドンマイ。
子どもたちが集まって上演開始。さすがに緊張ですが、始まってすぐに、こどもたちの笑い声。
緊張は解けました。いつもと変わらない、夢まあるく舎の人形劇です。
2歳のひなた君が、「おもしろいね」と喜んでいたとのこと。嬉しいです。
園長先生のお話し
地震の時、がれきで閉ざされて、電気も水も燃料もなく孤立した時、真っ先に駆けつけてくれたのは、
自衛隊の戦車だったそうです。がれきの上を、バリバリと掻き分けてやってきてくれて、みんな拍手で
迎えたとのこと。水や灯油などを届けてくれたとのこと。
食べるものも着るものも無かったときには、ホームセンターから流されてきた衣料や缶ジュースなどを拾い、
川で洗って飲んだそうです。川の水も飲んだそうです。
ある時期から、いろんな物資が届くようになり、みんなに配るために、その仕分け作業に追われたりもしたそうです。
お店が全くなくなり、宮古まで買い出しに行ったりして、大変だったそうです。3か月ほど前、ようやくスーパーができ、
買い物も楽になったそうです。
プレゼントですよ
宮古市のホテルから、40分かけて山田市へ。雨が上がり、景色も彼方まで見通せます。
宮古市は、沿岸部以外は被害も少なかったとのことで、町並みも大方無事のように見受けられました。
山田町に入ったころから、土台がむき出し、家は点在、高台に家屋は集中している風。
山田中央保育園は、改装も終わり、明るい建物で、ほっとさせられました。
準備にけっこう手間取りました。床にじゅうたんを敷き詰めてあるので、音が吸われて、声が届くか心配。
でも、スピーカーやワイヤレスマイク、防災用のハロゲンランプまでお借りできて、何とかスタンバイOK。
さて、子どもたちが、それは静かに、そーと入ってきて、あまりにおとなしいので、手探りで始めたんですが、
始まるとすぐ、ボールが転がるやいなや、大きな歓声が上がり、それからはまあ、大さわぎ。元気元気。
ほっとして、楽しく上演できました。
終演後に、プレゼントです。ながむら氏のお子さんの通う保育園から、コスモスの種。
子どもたちのイラスト付きです。
それから、つしとふじさん手作りのねこ、ゾウ、うさぎの指人形。みんなで遊んでね。
山田中央保育園は高台にありますが、園庭に波が来て、ホールは泥だらけになり、
園を再開するまでが、大変だったそうです。
帰りに私たちの車が見えなくなるまで、2階のバルコニーから、保育士さんが手を振って見送ってくださいました。
「あれ、こんな奥に入って行って大丈夫かな」思わず運転のながむら氏。ナビの導くままに山道をぐいぐい、
そーと昇っていくと、木の間から集落がふいに現れました。大丈夫そうです。
もうこれ以上進むのは無理だという突き当りに、大浦保育園はありました。
山の中の小さな小さな保育園です。園児は16人。この時間は、お昼寝中。園は本当に静かです。
園長先生にご挨拶をして、準備開始です。
「小学校が、運動会の代休で、ひとりに声をかけたら、15人もやってきてくれましたよ」と、園長さん。
地域の年輩の方も来てくださって、思いがけず、大勢集まってくれました。
見終わった後、小さい子が、何度も何度も「おもしろかったね おもしろかったね」と保育士さんに
話しかけたそうで、しみじみ嬉しくなりました。小学生たちも、負けず劣らずの声援で、会場は大賑わいでしたよ。
「へびだー」は、大きい子たちにも、大うけです。
こちらの園への上演が決まったいきさつが面白いのです。見知らぬおばあちゃんが、
「こんな話があるのだけれどどうだい?」と、ふいに園に訪ねてこられたそうです。
コーディネートしてくださった吉田さんの、親戚の知り合いのおばあちゃんだったそうですが、今回は、
山田町のあちこちに、いろんなご縁でつながったことだと、しみじみ思いました。
園長先生の話
津波でおぼれた人を次々とひっぱりあげて、濡れた服をはさみで切り取り、自分たちの服を着せて、
園児の昼寝用の布団を何枚もかけてお世話して、もうダメかなと思ったけど、三日目に目を覚ました
お年寄りがいたこと。波間から「助けてー」という声が聞こえてきても、どうすることもできず、その声が耳に残っている。
その声を聞いてしまった園児たちも、心に傷を負っている。
今日で岩手での人形劇公演も最終日です。浄土ヶ浜パークホテルをチェックアウトしていざ出発。
名残惜しいです。窓からの眺望も素晴らしく、海産物がおいしかった…。
ラストの上演は、龍昌寺というお寺に隣接する山田第一保育園です。
今までで一番大きな保育園です。一階が浸水して、保育園を再開するのに、一か月かかったそうです。
子どもたちが、大さわぎしながら楽しんでくれて、私たちはほっとしながらも、岩手での上演が終わったことに
心寂しさを感じていました。
龍昌寺の住職でもある園長先生は、開口一番、「今日はものすごい反応でしたが、こどもたちがこんなに
大さわぎできるようになるのに、半年かかったんですよ」と話してくださいました。
震災当時、子どもたちは感情が閉ざされ、表情が無くなり、一方で、些細なことで喧嘩をしたりという様子
だったそうです。106名の在園児のうち、47名の子が家を失いました。
自粛ということでイベントもできない。避難所では、騒ぐと叱られる。心に傷を負っているのに、癒しの手段が
なかったのです。そんな中、これではいけないと、7月に夏祭りを開催。全国からボランティアも参加してくれた。
ここらあたりから、少しずつ子どもたちが変わり始めたそうです。
たびたびボランティアの訪問があり、こどもたちはそれを楽しみにするようになった。紙芝居や音楽、風船など。
また、あちこちから派遣されてくる応援保育士さんとのふれあいも楽しく、11月ごろ、ようやくいつもの様子に
戻ってきたそうです。
震災時はこどもたちの昼寝の時間中で、あわてて外に出し、着替えさせていると、大津波警報が発令され、
親が迎えに来た61人の子は帰し、32人を連れて、裏山に逃げたそうです。帰した子どもの中から、
2名の犠牲者が出てしまった。
地震から津波が来るまでに、30分あったので助かった。
床上浸水した一階を片づけ、何とか4月7日に開園。当初は子どもたちも少なかったが(親元を離れたがらない子)
7月に仮設住宅が出来始めてから、こどもたちが戻ってくるようになった。ある保育士が、全国に発信して、
支援物資や、ボランティアが訪れるようになった。職員たちには、自分たちも被災しているのによく働いてもらって、
本当に感謝している。
政治の動きは遅かったけれど、今ようやく資金が回ってくることになった。津波と火災で、町の中心が
消滅してしまっている。山田駅もない。でも、仮設の商店もでき始め、ようやく動き始めた所です。
ぜひ現地を見に来てほしい。
園長先生のお話は続きました。
今回の4保育園での上演は、いつもの夢まあるく舎の上演と変わらないものでした。子どもたちは、
ちょうちょが舞い散ればどよめき、ウィッキーやでかちゃんと一緒に遊び、ヘビが出れば大さわぎ。
でも、その奥に、まだまだもろいものが隠されているようです。。私たちの訪問が、子どもたちの
45分間の心の開放に、その積み重ねと時の流れで、癒されていきますように。
今回の「岩手プロジェクト」は、ながむら氏、吉田さんとの出会いで実現しました。行かなくてはとの思いで、
でも「思い」だけで、つてもない車もない状態でしたが、それを埋めてくださったのが
ながむら氏と吉田さんのお二人でした。こんなこともあるものだと、しみじみ思います。きっと、
めったにないことが、起こったのです。めぐりあわせに感謝です。
さようなら山田町。
また訪れる日まで。