H.京王線分倍河原駅 新田 義貞公の像
昭和63年5月 富永 直樹作



 元弘3年(1333年)5月8日、上州生品神社の社殿で鎌倉討幕 の旗を上げた新田義貞は、越後・甲斐・信濃の同族軍等を糾合、翌9日には利根川を渡って武蔵国に入り、千寿王 (足利義詮)と合流し一路鎌倉を目指して南下した。
 一方幕府軍は入間川で新田軍を阻止するため北上。11日、 両軍は小手指原で遭遇し合戦となった。合戦の勝敗は容易に決しないまま12日の久米川の合戦につづき新田軍 有利の中で、幕府軍は陣立てのため急ぎ府中の分倍河原まで退いた。

 15日未明、新田軍は多摩川突破を目指して武蔵国府中を攻め分倍河原において大いに戦ったが、北条泰家率いる幕府軍 の逆襲にあって大敗を喫し狭山まで敗走した。この時新田軍の手によって武蔵国分寺の伽藍は灰燼に帰してしまったといわれている。 その夜、後退した焦燥の義貞のもとに相模の三浦義勝らが相模の国人衆を引き連れて参陣した。幕府の本拠地である 相模の国の国人衆の加勢に意を強くした義貞は、翌16日の未明に怒涛の如く分倍河原を急襲、前日の勝利におごり油断していた幕府軍 は、武具を整える間もなく総崩れとなり、鎌倉の最後の防衛線である多摩川は一気に破られ分倍河原合戦は新田軍の大勝利に 終わった。

 多摩川を超えて鎌倉に進撃した新田軍は、鎌倉で激しい市街戦を展開し、終に140年余り続いた鎌倉幕府を 滅亡させたのである。
 この像は、日本中世史上重要な意義を持つ分倍河原合戦ゆかりのモニュメントとして制作され、この地に設置されたものである。


Last Update 1999/09/10(1998/03/01)




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