Last Update 1999/06/21(1998/11/03)
弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)
写真は愛知県知多郡東浦町緒川の入海神社の境内に建てられている 弟橘比売命(弟橘媛命:オトタチバナヒメノミコト)の”お御詠”歌碑である。
日本武尊(倭建命:ヤマトタケルノミコト)は、第12代景行天皇の時代に 勅命によって東征に出陣する際、入海神社由緒によれば当時緒川に居住した 穂積氏忍山宿弥命(ホヅミノウジノオシヤマノスクネノミコト) を訪ねた。そして、その娘の弟橘比売命 を妃として、同伴し東征(蝦夷征伐)に向ったと云われる。
そして、一行は相模国三浦から上総国木更津へ「走水の海」(ハシリミズノウミ) を渡海する際、海の中ほどまで行ったところで暴風に遭遇する。 弟橘比売命は海神を静めるために、自ら海にその身を入りて(注1)日本武尊を救う。
こうして、日本武尊は無事関東・陸奥を征服し、さらに甲斐国から信濃国を平定して、 熱田の美夜受比売(ミヤズヒメ)のもとに帰還する。(日本書記、古事記より)
緒川には次のような弟橘比売命の伝説が存在する。
父穂積氏忍山宿弥命は海路帰途につき緒川に凱旋するが、この時父の乗った船の後を追って、 弟橘比売命の形見である櫛が、緒川の紅葉川までついてきたと伝えられている。(注2)
この櫛は、相模から、遠州灘、伊良湖、小垣江を経由して緒川に漂着したともいわれる。
緒川城跡から北へ数百メートルの所に、この弟橘比売命の櫛を祭る「入海神社」 (いりみじんじゃ)がある。
緒川の伝説をもとにすれば、穂積氏忍山宿弥命は伊勢国物部氏で、大和朝廷 から伊勢を経由して知多半島に派遣されて来たと思われる。日本武尊の東征の 少し前あたりであろうか。
三重県亀山市に「忍山神社」(おしやまじんじゃ)があり、穂積氏忍山宿弥命に深い関わりがあるという。 ここが弟橘比売命の生誕地という説があり、出生後弟橘比売命は父に伴って緒川に 赴任してきたものと思う。現在でいう家族同伴の赴任であろう。
また日本武尊を祭る亀山市の能ぼ野神社には、 日本武尊と弟橘比売命が合祀されている。
注1)海上で風波の難に逢うのは、その海の神が船中の人または物の類を 欲するからで、その神の欲するものを海に入れれば風波が静まるという思想 がある。
古事記によれば
「・・・海に入らむとする時に、波の上に多くの敷物(畳八重)を敷いて その上に媛が下りました」とある。
后の弟橘比売命は「私が身を捧げて渡(わたり)の神(海神)を鎮めましょう。 あなたは使命を遂げてください」といい
「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の
火中に立ちて 問ひし君はも」
(あの燃えさかる野中の火の中でも、私の身を気づかい、問いかけて くださったあなたよ)
という歌を残し、自ら海に身を入りて暴れる海を静めた。
征服後の帰途、足柄峠に至った日本武尊は、東国を振り返り、自分のために一身を 渡の神に投じてくれた弟橘比売命をいとしく追想して、「吾妻(あづま)はや (わが妻よ)」と3度も嘆息した」。(東国を”あづま”というのはこの ゆえである)
注2)古事記によれば、「かれ、7日の後に、その后の御櫛(みくし) 海辺に依りき。すなはちその櫛を取りて、御陵(みはか)を作りて治め 置きき。」とある。
御陵の所在は不明。神奈川県浦賀市走水神社に、倭建命と弟橘比売が祭られている。
日本の各地に残る数々の日本武尊と弟橘比売命の伝説は、遠い古代から現代まで 我々日本人の心を捉えて止まない。あるところでは土地の名前となり、神社の 神様となり、そして多くの土地の人々によって祭り伝えられてきた。これらの 一つ一つが私たちのこころの故郷であり、いつまでも大切にしたいものである。
徳川家康の母「於大の方」は、かかる伝説を我が身の糧として育ったので あろうと思う。
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