Last Update 1999/02/24
村木砦の戦いと八剣神社(八釼神社)
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1999年2月13日に、幼少時の遊び場所の一つでもあった「村木砦跡」 に行った。今は「村木砦跡」石碑(写真右)と八釼神社(写真左)が隣りあっ て建っている。
ここは石が瀬川の近くで、戦国時代に織田・水野連合軍と今川義元が覇権を 争った場所の一つである。
当時は海(入り江)となっていた岬に、今川軍によって砦が築かれた。 場所はJR尾張森岡駅北約300メートルにあり、JR武豊線が「砦」の丁度 真ん中あたりを突っ走る。(名古屋駅よりJR武豊線に乗って約20分) 桶狭間古戦場からは南南西約6kmに位置する。
「村木砦」は、東西約400m、南北約300mの広さで、本丸はじめ大手門 など要塞を形成していた。東側には船着き場、西側には空掘があった。 今も僅かに車窓から、要塞の一部と森を望むことができる。
桶狭間の戦い(永禄3年・1560年5月19日)より、溯ること凡そ6年前の 「村木砦の戦い」を振り返ってみると・・・。
天文20年(1551)強敵織田信秀の死を好機に、今川義元は尾張への侵攻 を図った。
やがて鳴海城、大高城、沓掛城を手中に収め、続いて、織田に属する緒川城の 水野信元を攻略しようとした。重原城を根拠地として資材を送り、村木の岬に 砦を築き、三河の精鋭東条松平太郎義春を城将とした。
信元から援軍の依頼を受けた織田信長は天文23年(1554)1月21日 兵を率いて那古野城(今の名古屋城)を出発した。22日は強風の中を熱田港 から渡海し、23日緒川城に到着した。
織田信長は本陣を村木神社に張り、24日朝から織田・水野の連合軍が 村木砦の攻撃を開始した。
両軍共によく戦ったが夕方になって今川軍は遂に降伏した。村の西方にある 首塚は両軍の戦死者を葬った所である。
八釼神社は元亀2年(1591)信元の家臣清水八右衛門家重・同権之助 政晴が戦死者鎮魂を願って創建した。
(東浦町教育委員会資料より)
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