Last Update 1999/08/12(1998/11/03)
刈谷城本丸跡
緒川城主初代貞守は、緒川を根拠に次第に勢力を伸ばし西三河 に進出し、享徳元年には刈谷にとりでを築いてここを足場にするに至った。
このとりでは、いま刈谷古城といわれている。(刈谷城から南方へ数百mのところ)
「於大の方」の父である緒川城主4代忠政の時代になって、軍事上の必要から 刈谷金ケ小路(かねがしょうじ)のほとりに新たな城を築いた。これが今の刈谷城 (亀城=きじょう)である。
この亀城は天文2年(1533年)に完成し、以来明治の廃藩を迎えるまで 代々藩主を置く。
「於大の方」は、緒川城からこの城に移り住み、5才から14才までの約10年間 を過ごしたといわれる。緒川城は「於大の方」の出生地で、この刈谷城は「於大の方」の 故郷と呼ばれる所以である。
なお、亀城公園案内板および日高利男君から頂いた歴代刈谷城主絵葉書 (刈谷市発行)、遠藤太志郎君 からの資料等によれば、城主は忠政本家のあと、その分家、松平(深溝)、 松平(久松)、稲垣、阿部、本多、三浦と続き土井家が2万3000石で廃藩 まで在城した。
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伝通院「 於大の方」略年譜と物語
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