Last Update 1999/08/12(1998/11/03)
竹千代誕生と岡崎城
松平広忠のもとに嫁いだ「於大の方」は、広忠とともに鳳来寺にお参りして 男子誕生を願ったと伝えられる。
願い叶って、天文11年(1542年)12月26日、「於大の方」は岡崎 城内で男子を生んだ。竹千代こと後の徳川家康である。 「於大の方」は妙心寺に薬師如来の像を奉納し、我が子の成長を祈った。
後に、鳳来寺には報恩のため、3代将軍家光によって東照宮の建築が命じられる。 この鳳来寺東照宮は日光東照宮、久能山東照宮と並んで日本3大東照宮の一つと いわれる。
丁度この頃、安祥城を織田信孝に奪われ、今川氏の大軍も破れ、加わった 広忠は敗走の苦境に立った。天文12年(1543年)忠政が死去し、嫡子信元 があとを継いだが、信元は織田に組してしまう。
このため、広忠は今川に遠慮し「於大の方」を離別することとした。 これは「於大の方」の時勢を見抜く賢明な処置であったともいわれる。
岡崎城に在すること僅か3年で、3才になった竹千代を岡崎に残して、 「於大の方」は刈谷に返された。
「竹千代」名の由来
天文12年(1543)三河の称名寺で連歌の会が催された。
このとき広忠は
「神々の ながきうき世を 守るかな」に対して
「めぐりは広き園の竹千代」
という句を付けた。
この句から家康の幼名を竹千代としたと伝えられる。
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