Last Update 1999/08/12(1998/11/03)
椎の木屋敷と「於大の方」
天文13年(1544年)松平広忠のもとを離別した「於大の方」は、刈谷 に戻った。そして、同じく離縁して戻っていた姉「於上の方」(松平家忠の妻) とともに、一時刈谷城外の「椎の木屋敷」(椎の木が茂った閑静な地)に移り 住んでいたという。ここで約4年間の歳月を送ることになる。数え年で17才 から20才の間である。
ここは現在刈谷市銀座街の一角となっており、銀座通りからほど近く繁華街 及び住宅街となっている。旧本町の太田家の近く、ひっそりと「椎の木屋敷跡」 を示す碑が立っている。
小学生のころ友達の水野堯夫君と一緒に森岡から、よく旧本町の本屋さんに 行ったものである。また30年ほど以前になるが、銀座通りの東海銀行の近くで 約三ヶ月の生活をしたこともあり懐かしい場所の一つである。
旧本町から刈谷城までは約400m足らずで、町口門跡から刈谷中央図書館、 大手門跡碑を通り少し下って行くと刈谷城のお堀に達する。 今でも昔の城下町の面影をよく残した場所である。
「於大の方」がここに住した間、父忠政の墓のある緒川(小河)の乾坤院や 菩提寺である刈谷の楞厳寺にしばしば参詣したという。 戦国の世に生きる若き母として、竹千代を思うこころはいかなるものであった だろうか。
(刈谷市ホームページ「伝通院於大の方について」より)
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