於大の方

徳川家康の生母 於大の方 水野氏一族

村木 水野氏(むらき みずの氏)

    村木(現在の愛知県知多郡東浦町森岡) 水野氏一族である
    同地出身の郷土史研究家「杉浦 順二氏」の著作です。(同郷)


 愛知県知多郡東浦町緒川に有る「乾坤院」の末寺で同町大宇森岡(旧、村木村)宇郷一色三、 正高山「海印寺」には、約400年前の墓石に「水野氏之墓」と記されたものがある。
 戦国時代小河を本拠地として刈谷、知立、鷲塚、箕輪、大高、横根、平島、 亀崎、常滑等を支配していた、小河城5代目城主「水野信元」が<武田方へ塩を売った>と 「織田信長」に疑いを受け甥で有る「徳川家康」の家臣に殺害された。 養子の元茂は小河城で自害し近親者は信長を恐れ逃亡又は蟄居した。一族のうち信長、家康に 仕えた人達もあった。
 其の頃、尾張国知多郡村木村の「椿」が有る地で質素な庵に住み着いた武家一家が有った。

 かって、村木村は「桶狭間の戦」の前哨戦「村木砦の戦」となった時、今川方に雇われた (強引に雇われたとも又、村人の中で今川方に手引きする人が居たとも言う)人達は砦作りに従事し 戦が始まると雑兵として、「織田、水野」連合軍と戦わされた。
連合軍も村人を雑兵とした為村人達は、敵、味方と二分され激戦の末「織田、水野」連合軍が 勝利した。戦が終わると今川方で生き残った村人達を「織田信長」が水野の代官「清水八右衛門」に 処刑する様に命令した、その処刑場には「椿」が有ったと言う。当時50軒程の平和な村は 多くの家に犠牲者が出て村は大混乱と成り不穏な雰囲気で税の取りたても出来なかった。

 武家の主人は、身分を伏せ「椿」の有る地で「村木砦の戦」で犠牲となった村人達の「霊」を 慰める生活を始めた。戦国時代の事とて「何時かは、再び」と時を待ったが高齢か病気でそれは 叶わずこの地で生涯を終えた。この方が「村木水野氏」初代と思われ、法名を「洞獄大仙上座」と 言い奥方は「丹山妙楓大姉」と言う。夫婦には複数の男、女の子供が居たらしく法名でOO童子、 OO童女の墓石が有るこの家の2代目は戦場働きには向かない人と思われ、父親と同様、村の 犠牲者達の「霊」を慰める生活をした。この方の法名を「一空達心庵主」と言い、「織田」家に 気を使わなくても良い時代に成ったのか、その墓石には「水野氏之墓」と刻まれている、奥方の 法名は「浄光祐身大姉」と言った。三代目からは帰農した様だ。

 私が、村木村の「水野」を「村木水野氏」としたのは、愛知教育大学名誉教授の「新行紀一」先生の 「刈谷水野氏」の説を真似たもので、「新行」先生は「徳川」の前身は土地の名前を付け 「OO松平」と言い「松平」は十数家有ったといわれる。従って、戦国時代の水野氏も「小河水野」、 「刈谷水野」、「常滑水野」、「大高水野」と「村木水野」等に分けた方が系図上判りやすいと思う。

 「村木水野氏」の菩提寺、「海印寺」が明治34年に火災を起こし「過去帖が焼け詳しい事は 判らないが「海印寺、河村御住職」は「多分その様な事でしょう」と言われた。現在、東浦町には 「水野」姓を名乗られる家が約350軒あられる。明治5年戸籍法が公布された時「海印寺」の 檀家はことごとく「水野」姓を称したと「東浦町誌」に記されている、東浦町の戦国時代前後に 作られた御先祖様の墓石に「水野」と有るのは何軒も無いと思われます。

 私の父が若いとき、「美濃守 藤原政常」作の槍、銘は不明の朱鞘の大小、及び白鞘の短刀が 有ったと言っていたが、第二時世界大戦後、連合軍に見つかると罰せられると、縁の下へ隠していた。 手入れもせず取り出したときは錆が酷く残念な事に廃品と成ってしまったそうな。
なお 、「村木水野」の現当主は「利剋」で16代続いて居ります。私の父は15代目「利平治」の 実弟で「順一」と言い母方の里に子供が無く養子に行き「杉浦」を継ぎました。従って私も 「村木水野」一族と名乗っています。

            平成14年11月吉日  村木 水野一族  杉浦 順二

   参考資料
     ※「中日文化教室」清水香都江先生御講義
       「今川勢の西進基地、村木砦」 
     ※外山清治先生の「史跡村木砦」
     ※東浦町誌
     ※刈谷市史、第二巻、近世


Last Update 2008/1/13

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