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表紙カバー (写真についての説明はないが、本文「京の四季」に 述べられている、桂離宮の杉苔の庭と思われる。) |
目 次
第一部 巨椋池の蓮 京の四季 二條離宮の障壁画 新しい様式の創造 第二部 「菊と刀」について 若き研究者に ― ヒミコ女王の国ヤマトについて ― 埋もれた日本 ― 吉利支丹渡来時代前後における 日本の思想的状況 ― 第三部 漱石に逢ふまで 漱石の人物 藤村の思ひ出 藤村の個性 露伴先生の思ひ出 歌集『涌井』を読む 杉先生の思ひ出 太田正雄君の思ひ出 野上さんのこと 児島喜久雄君の思ひ出 第四部 われわれの立場 民族的存在の防衛 私の信条 あとがき |
本文の一部紹介 |
漱石の人物
私が漱石と直接に接触したのは、漱石晩年の満三箇年の間だけである。 しかしそのお蔭で私は 今でも生きた漱石を身近に感じることができる。 漱石は その遺した全著作よりも 大きい人物であつた。 その人物にいくらかでも触れ得たことを 私は今でも幸福に感じてゐる。
初めて早稲田南町の漱石山房を訪れたのは、大正二年の十一月頃、天気のよい木曜日の午後であつたと思ふ。 牛込柳町の電車停留場から、矢来下の方へ通じる広い通りを三四町行くと、左側に、自動車がはいれるかどうかと思はれる位の狭い横町があつて、先は少しだらだら坂になつてゐた。 その坂を一町ほどのぼりつめた右側が 漱石山房であつた。 門をはいると 右手に庭の植込みが見え、突き当りが玄関であつたが、玄関からは右へも左へも廊下が通じてゐて、左の廊下は茶の間の前へ出、右の廊下は 書斎と客間の前へ出るやうになつてゐた。 ところで、この書斎と客間の部分は、和洋折衷と云つても よほど風変りの建て方で、私は他に似通つた例を知らない。 まづ廊下であるが、板の張り方は日本風でありながら、外側にペンキ塗りの勾欄がついてゐて、直ぐ庭へ下りることが出来ないやうになつてゐた。 さうして かういふ廊下に南と東とを取り巻かれた書斎と客間は、廊下に向つて西洋風の扉や窓がついて居り、あとは壁に囲まれてゐた。 だから ガラス戸が引き込めてあると、廊下は露台のやうな感じになつてゐた。 しかし そのガラス戸は、全然日本風の引き戸で、勾欄の外側へ丁度雨戸のやうに繰り出すことになつてゐたから、冬はこの廊下が サン・ルームのやうになつたであらう。 漱石の作品にある「硝子戸の中」は さういふ仕掛けのものであつた。 そこで 廊下から西洋風の戸口を通つて書斎へはいると、そこは板の間で、もとは西洋風の家具が置いてあつたのかも知れぬが、漱石は 椅子とか書き物机とかのやうな西洋家具を置かず、中央よりやゝ西寄りのところに絨氈を敷いて、そこに小さい紫檀の机を据ゑ、坐つて仕事をしてゐたらしい。 室の周囲には書棚が並んで居り、室の中にもいろいろなものが積み重ねてあつて、紫檀の机から向うへは入る余地がない程であつた。 客間はこの書斎の西側に続いてゐるので、仕切りは引き戸になつてゐたと思ふが、それは大抵開け放してあつて、一間のやうに続いてゐた。 客間の方は畳敷で、書斎の板の間との間には 一寸位の段がついてゐた筈である。 この客間にも、壁のところには書棚が置いてあつた。
私が女中に案内されて客間に通つた時には、漱石はもうちやんとそこに坐つてゐた。 書斎と反対側の中央に入口があつて、その前が主人の座であつた。 私は それと向き合つた席に 書斎をうしろにして坐つた。 外には客はなかつた。
この最初の訪問のときに 漱石とどういふ話をしたかは 殆んど覚えてゐないが、しかし 書斎へはいつて最初に目についた漱石の姿だけは、はつきり心に残つてゐる。 漱石は 坐ぶとんの上にきちんと坐つてゐた。 和服を着て坐つてゐる漱石の姿を見たのは これが最初である。 客がはいつて行つても あまり体を動かさなかつた。 その体つきは きりつと締つて見えた。 三年前の大患以後、病気つゞきで、この年にも『行人』の執筆を一時中絶したほどであつたが、一向病人らしくなく、むしろ精悍な体つきに見えた。 どこにも隙のない感じであつた。 漱石の旧友が訪ねて行つて、同じやうに迎へられたとき、「いやに威張つてゐるぢやないか」と云つたといふ話を、その後聞いたことがあるが、人によると この態度を気取りと受取つたかも知れない。 しかし私は どこにもポーズのあとを感じなかつた。 因襲的な礼儀をぬきにして、いきなり漱石に会へたやうな気持がした。 多分 この時の印象が強かつたせゐであらう。 漱石の姿を思ひ浮べるときには、いつもこのきちんと坐つた姿が出てくる。 実際 またこの後にも、大抵は坐つた漱石に接してゐた。 だから 一年近く経つてから、歩いてゐる漱石を見て、いかにも よぼよぼしてゐるやうに感じられて、ひどく驚いたことがある。 確か ザルコリ(*) の音楽会が帝国ホテルで催ほされたときで、玄関をはいつて行くと、十歩ほど先をコツコツと歩いて行く漱石のうしろ姿が見えたのであつた。 それを見て 私はすぐに漱石の大患を思ひ出した。 それは決して精悍な体つきではなかつた。* アドルフォ・サルコリ (Adolfo Salcoli, 1867〜1936) イタリア人の声楽家(テノール歌手)。 明治44年(1911年)に来日、定住し、帝国劇場等で公演を行なうとともに、音楽教師として声楽のほか、ギターやマンドリンを教えた。
初めて漱石と対座しても、私はさう窮屈には感じなかつたやうに思ふ。 応対は非常に柔かで、気置きなく話せるやうに仕向けられた。 秋の日は暮れが早いので、やがて辞し去らうとすると、「まあ 飯を食つてゆつくりして居たまへ、その内 いつもの連中がやつてくるだらう」 と云つてひきとめられた。 膳が出ると、夫人が漱石と私との間に坐つて 給仕をして呉れられた。 夫人は当時三十六才で、私の母親よりは十才年下であつたが、その時には 何となく母親に似てゐるやうに感じた。 体や顔の太り具合が似てゐたのかも知れない。 微かにほゝゑみを浮べながら、無口で、静かに控へて居られた。 当時はまだ『道草』も書かれて居らず、況んや夫人の『漱石の思ひ出』などは 想像も出来なかつた頃であるから、漱石と夫人との間のいざこざなどは、全然念頭になかつた。 『我輩は猫である』のなかに描かれてゐる苦沙弥先生夫妻の間柄は、決して陰惨な印象を与へはしない。 作者はむしろ 苦沙弥夫人をいつくしみながら 描いてゐる。 だから私は 漱石夫妻の仲が悪いなどといふことを思つても見なかつたのである。 実際またこの日の夫人は 貞淑な夫人に見えた。
食事をしながら、漱石は志賀直哉君の噂をした。 確かその頃、漱石は志賀君に 朝日新聞へ続きものを書くことを頼んだのであつたが、志賀君は、気が進まなかつたのだつたか、或は取りかゝつて見て思ふやうに行かなかつたのだつたか、とにかく それをことわるために漱石を訪ねた。 それが 二三日前の出来事であつた。 その時のことを 漱石は話したのである。 その話のなかに、「志賀君も なかなか神経質だね」といふ言葉のあつたことを、私はぼんやり覚えてゐる。
食事がすんで暫くすると、ぼつぼつ若い連中が集り始めた。 木曜日の晩の集まりは、その頃はもう六七年も続いて来てゐるので、初めとはよほど 顔ぶれが違つて来てゐたであらうが、その晩集まつたのは、古顔では森田草平、鈴木三重吉、小宮豊隆、野上豊一郎、松根東洋城など、若い方では赤木桁平、内田百閨A林原耕三、松浦嘉一などの諸君であつたやうに思ふ。 客間は多分十畳であつたらうが、書斎の側だけには並び切れず、窓のある左右の壁の方へも折れまがつて、半円形に漱石を取り巻いて坐つた。 客が大勢になつても 漱石の態度は少しも変らなかつた。 若い連中に 好きなやうに喋舌らせて置いて、時々受け答へをする位のものであつた。 特に好くしやべつたのは 赤木桁平で、当時の政界の内幕話などを 甲高い調子で弁じ立てた。 どこから仕入れて来たのか、私たちの知らないことが多かつた。 が ほかの人たちが話題にするのは、当時の文芸の作品とか美術とか学問上の著作とかの評判であつた。 漱石はさういふ作品の理解や批判の力においても 非常にすぐれてゐたと思ふ。 若い連中には どうしても時勢に流され、流行に感染する傾向があつたが、漱石は決してそれに迎合しようとはせず、また 流行するものに対して 常に反感を持つといふわけでもなく、自分の体験に則して、よいものはよいもの、よくないものはよくないものと はつきり自分の意見を云つた。 森田、鈴木、小宮など古顔の連中は、ともすれば 先生は頭が古いとか、時勢おくれだとか云つて 喰つてかゝつたが、漱石は別に 勢込んで反駁するでもなく、云ひたいまゝに云はせて置くといふ態度であつた。 だからこの集まりは むしろ若い連中が気焔をあげる会のやうになつてゐたのである。 しかし 後になつて追々に解つて来たことであるが、漱石に楯をついてゐた先輩の連中でも、皆それぞれに漱石に甘える気持を持つてゐた。 それを漱石は心得て居り、気焔をあげる連中は 自分で気付かずにゐたのだと思ふ。
この木曜会の気分は 私には非常に快く感じられた。 それで この後には時々、多分 月に一度か二度位は出席するやうになつた。
漱石を核とする この若い連中の集まりは、フランスでいふサロンのやうなものになつてゐた。 木曜日の晩には、そこへ行きさへすれば、楽しい知的饗宴にあづかることが出来たのである。 が そこにはなほ サロン以上のものがあつたかも知れない。 人々は 漱石に対する敬愛によつて集まつてゐるのではあるが、しかし この敬愛の共同は やがて友愛的な結合を媒介することになる。 人々は 他の場合にはそこまで達し得なかつたやうな親しみを、漱石のお蔭で互に感じ合ふやうになる。 従つてこの集まりは 友情の交響楽のやうな風にもなつてゐたのである。 漱石とおのれとの直接の人格的交渉を欲した人は、この集まりでは不満足であつたかも知れない。 寺田寅彦などは、別の日に一人だけで 漱石に逢つてゐたやうである。 少くとも 私が顔を出すやうになつてから、木曜会で寅彦に逢つたことはなかつた。 また 漱石の古い友人たちも、木曜会にはあまり顔を見せなかつた。 私の記憶に残つてゐるのは、たゞ一つ、畔柳芥舟が 何かの用談に来てゐた位のものである。
大正三年頃の木曜会は、初期とは大分 様子が違つて来てゐたのであらうと思ふが、私にはつきりと眼についたのは、集まる連中のなかの断層であつた。 古顔の連中は 一高や大学で漱石に教はつた人たちであるが、その中で大学の卒業年度の最も後なのは 安部能成君であつて、そのあとはずつと途絶えてゐた。 安部君と同じ組には 魚住影雄、小山鞆絵、宮本和吉、伊藤吉之助、宇井伯寿、高橋穣、市河三喜、亀井高孝などの諸君がゐたが、安部君のほかには 漱石に近づいた人はなく、そのあと、私の前後の三四年の間の知友たちの間にも、一人もなかつた。 木曜会で初めて近づきになつた 赤木桁平、内田百閨A林原耕三、松浦嘉一などの諸君は、皆まだ大学生であつた。 また 古顔の連中は、鈴木三重吉のほかは 皆一高出であつたが、若い大学生では 赤木、内田両君が六高、松浦君が八高出であつた。 だから私は 丁度この断層の真中にゐたことになる。 芥川龍之介の連中が 木曜会を賑はすやうになつたのは、さらに二年の後、大正五年のことである。
古い連中と新らしい連中との間には、年齢から云つても六七年、或は十年に近い間隔があつたし、また漱石との交はりの歴史も違つてゐた。 古い連中は 相当露骨に反抗的態度をみせたが、新しい連中にはさういふことは出来なかつたし、またしようとする気持もなかつた。 しかし大正三年の頃には、さういふ断層のために 何か不愉快な感情が起るといふことは、全然なかつたやうに思ふ。 これは 私が鈍感であつたせゐかも知れぬが、とにかく私自身は、古い連中が圧制的だと感じたこともなかつたし、また漱石に楯を突く態度を 怪しからぬと思つたこともない。 初めのうちは、弟子たちが漱石に対して無遠慮であることから、非常に自由な雰囲気を感じたし、やがてそのうちに、前に云つたやうな 弟子たちの甘えに気づいて、それを諧謔の調子で軽くいなしてゐる 漱石の態度に感服したのである。 楯を突いてゐた連中でも、たまに漱石から真面目なことを一言云はれると、ひどく骨身に徹して感じたやうであつた。 断層のために 幾分 弟子たちの間に感情のこだはりが出来たのは、芥川の連中が加はるやうになつてからではないかと思ふ。 その頃私は 鵠沼に住んでゐた関係で、あまり度々木曜会には顔を出さなかつたし、また たまに訪れて行つた時には その連中が来てゐないといふわけで、漱石生前には一度も同座しなかつた。 従つて さういふことに気付いたのは 漱石の死後である。
木曜会で接した漱石は、良識に富んだ、穏やかな、円熟した紳士であつた。 癇癪を起したり、気ちがひじみたことをするやうなところは、全然見えなかつた。 諧謔で相手の言草をひつくり返すといふやうな機鋒は なかなか鋭どかつたが、しかし 相手の痛いところへ突き込んで行くといふやうな、辛辣なところは少しもなかつた。 むしろ 相手の心持をいたはり、痛いところを避けるやうな心遣ひを、行届いてする人であつた。 だから私たちは 非常に暖かい感じを受けた。 しかし漱石は、さういふ心持や心遣ひを言葉に現はして くどくどと述べ合ふといふやうなことは、非常に嫌ひであつたやうに思はれる。 手紙では さういふこともどしどし書くし、また人からも さういふ手紙を盛んに受取つたであらうが、面と向つて話し合ふときには、出来るだけ淡泊に、感情をあらはに現はさずに、互に相手の心持を察し合つて 黙々のうちに理解し合ふことを望んでゐたやうに見えた。 これは或は 漱石に限らず 私たちの前の世代の人々に通有な傾向であつたかも知れない。 私の父親なども さういふ風であつた。 私は 父親から 愛情を現はす言葉などを 一度も聞いたことはない。 言葉だけを証拠とすれば、父親には愛がなかつたといふことになるが、さうではないことを私はよく理解してゐた。 叱りつける言葉の中にだつて 愛は感じられるのである。 しかし さういふ態度は、親子の愛情などを何のこだはりもなしにあけすけに露出させる態度と、はつきり違つてゐる。 昔の日本の風習には、感情の表現にブレーキをかけるといふ特徴があつたと思ふ。 その点で 漱石は前の世代の人であつた。 それだけに漱石は、言葉に現はさずとも心が通じ合ふといふこと、即ち 昔の人のいふ「気働き」を求めてゐたと思ふ。
さういふ漱石が、毎週 自分のところに集まつてくる十人位の若い連中 ― それは毎週少しづつ顔ぶれが変るのであるから、全体としては数十人あつたであらうが ― さういふ連中の敬愛に応へ、それぞれに暖かい感じを与へてゐたといふことは、並々ならぬ精力の消費であつた筈である。 勿論 漱石は客を好む性( であつて、いやいやさうしてゐたのではないであらうが、しかしそれは、客との応対によつて精力を使ひ減らすといふことを 防ぎ得るものではない。 客が十人も来れば 台所の方では相当に手がかゝる。 しかし 客と応対する主人の精神的な働きも それに劣るものではない。 木曜会に時々顔を出した頃の私は、そんなことを まるで考へても見なかつたが、後に漱石の家庭の事情を いろいろと知るに及んで、その点に思ひ及ばざるを得なかつたのである。 日本で珍らしいサロンを 十年以上開き続けてゐたといふことは、決して犠牲なしに行はれ得たことではなかつた。 漱石は 多くの若い連中に対して 殆んど父親のやうな役目をつとめ尽したが、その代り 自分の子供たちからは 殆んど父親としては迎へられなかつた。 これは家庭の悲劇である。 漱石のサロンには この悲劇の裏打ちがあつたのである。)
このことに はつきり気づいたのは、漱石の死後十年の頃に、ベルリンで 夏目純一君に逢つた時である。 純一君は 漱石が朝日新聞に入社した頃生れた子で、漱石の没したときには まだ満十才にはなつてゐなかつた。 木曜会で集まつてゐる席へ、パヂャマに着かへた愛らしい姿で、お休みなさいを云ひに来たこともある。 私は 直接馴染みになつてゐたわけでなく、漱石の没後にも、一時 家を出てゐた頃に、九日会 (漱石の死後、木曜会の参加者達が毎月 命日の九日に集まって、談論した会合。) の日に玄関先で見かけた位のものであつた。 だから ベルリンの日本人クラブで、二十才の青年になつてゐる純一君から声をかけられたときには、初めは誰か解らなかつた。 名乗られて顔を眺めると、一高の廊下で 時々見かけた頃の漱石の面ざしが、非常にはつきりと出てゐるやうに思へた。 それから時々往来するやうになり、催はれて 一緒にテニスをやりに行つたりなどしたが、似てゐるのは面ざしだけでなく、性格や気質の上にも かなり濃厚に父親似が感ぜられた。 当時ベルリンで逢ふ日本人のうちでは、一番傑出した人物であつたかも知れない。 しかし まだ若い上に、釣合のとれない チグハグなところがあつた。 それは当人も気づいてゐて、「おれは 日本語の丁寧な言葉つてものを 一つも知らないんだよ。 だから 日本から来た ヘル・ドクトル (Herr Doktor、学位所持者。) の連中に初めて逢つて 口をきくと、みんな変な顔をするんだ」と云つてゐたことがある。 この純一君と話してゐるうちに、漱石の話が度々出たが、純一君は漱石を 癇癪持の気ちがひじみた男としてしか 記憶してゐなかつた。 いくら私が、さうではない、漱石は良識に富んだ、穏やかな、円熟した紳士であつたと説明しても、純一君は承知しなかつた。 子供の頃、まるで理由なしになぐられたり、怒鳴られたりした話を、いくつでも持ち出して、反駁するばかりであつた。 そこにはむしろ 父親に対する憎悪さへも感じられた。 それで私は はつと気づいたのである。 十歳にならない子供に、創作家たる父親の癇癪の起るわけが解る筈はない。 創作家でなくとも 父親は、しばしば子供に折檻を加へる。 子供のしつけの上で 折檻は必要だと考へてゐる人さへある。 それは愛の行為であるから、子供の心に憎悪を植ゑつける筈のものではない。 創作家の場合には、精神的疲労のために、さういふ折檻が 癇癪の爆発の形で現はれ易いであらう。 しかしその欠点は 母親が適当に補ふことが出来る。 純一君の場合は、母親がこの緩和ににつとめないで、むしろ 父親の癇癪に対する反感を煽つたのではなからうか。 そのために、年と共に消えて行く筈の折檻の記憶が、逆に固まつて、憎悪の形をとるに至つたのではなからうか。 さうだとすれば、漱石夫妻のいざこざが、かういふ形に残つたとも云へるのである。
このことに気づいたとき 私は、『道草』に描いてある夫婦生活の破綻を 再び意味深く反省して見る気持になつた。 あの小説の主人公も細君も、決して悪い人ではない。 しかし いづれも我が強く、素直に理解し合ひ、いたはり合はうとはしない。 二人の間に やさしい愛情がないわけでもないのに、細君は夫を 「気違ひじみた癇癪持」に仕上げ、夫は細君を 従順でない「しぶとい女」に仕上げて行く。 漱石は この作を書いた時より十年ほど前、『我輩は猫である』を書き出す前後の自分の生活を この作で書いたと云はれてゐるが、しかし 作者としての漱石は 作の主人公やその細君を一歩上から憐れみながら、客観的に批判して書いてゐる。 漱石の心境は もはや同じところに留まつてゐたのではない。 しかし 漱石の家庭生活が その心境と同じやうに 一歩高いところへ開けて行つたゐたかどうかは 疑はしい。 夫人が 素直に漱石について歩いてゐれば、或は漱石が その精力を家庭の方へ傾けてゐれば、多分さうなつてゐたであらう。 しかし この期間の生活の痕跡を一身に受けてゐる純一君は、明かにその反証を見せてくれたのである。 『道草』に書かれた時代よりも後に生れた純一君は、父親を「気違ひじみた癇癪持」として 心に烙きつけてゐた。 それは 容易に消すことが出来ないほど 強い印象であつた。 私はそこに 十歳以前の子供に対する母親の影響を見たのである。
これは 私が漱石に接しはじめてから後にも亘つてゐる出来事である。 だから私は、漱石の明るいサロンが、家庭の悲劇の犠牲において作り出されてゐた、と感ぜざるを得ないのである。 あゝいふサロンの空気は、すでに『吾輩は猫である』のなかにも 見いだすことが出来る。 漱石はそこでは 妻子に見せるとは異なつた面を見せてゐた。 何十人もの若い人たちに 父親のやうな愛を注ぎかけた。 そのための精力の消費が、夫として、或は父親としての漱石の態度に、マイナスとして現はれるといふことは あり得たのである。 漱石を 気違ひじみた癇癪持と感じることは、夫人や子供たちの側からは、それ相応に 理由のあることであらう。 漱石に対する理解や同情がありさへすれば、問題をそこまでこじらさなくてもすんだであらう とはいへる。 しかしこれは 夫人や子供たちに 漱石と同程度の理解力や識見を要求することにほかならない。 さういふ要求は もともと無理である。 漱石の方から下りて行つて 手を取つてやるほかに道はなかつた。 もしさうしてゐれば 漱石は、実際の漱石とはかなり別のものになつてゐたであらう。 さういふ漱石が、よりよい漱石であつたかどうかは 別問題である。 が 少くとも 自分の子供の内に 憎悪を烙きつける父親ではなかつたらうと思はれる。
純一君にベルリンで逢つてから二年後に、漱石夫人の『漱石の思ひ出』が出版された。 その中に 漱石を一種の精神病者として取扱つてゐる箇所がある。 特に烈しいのは 『道草』に書かれた時期のことである。 そこに並べられてゐる いろいろな事実から判断すると、夫人の観察は正しいと考へざるを得ないであらう。 しかし 実際に病気にかゝつたのであつたならば、『我輩は猫である』や『道草』などは 書かれる筈がないと思ふ。 当時漱石は、世間全体が癪に障つてたまらず、その為めに からだを滅茶苦茶に破壊してしまつた、と みづから云つてゐる。 猛烈に癇癪を起してゐたことは 事実である。 しかし その時のことを客観的に描写し、それを分析したり 批判したりすることが出来たといふことは、漱石が決して意識の常態を失つてゐなかつた 証拠である。 それを精神病と見てしまふのは、いくらか責任回避の嫌ひがある。 一体にこの『漱石の思ひ出』は、漱石を「気違ひじみた癇癪持」に仕上げて行く 最後のタッチであつたやうな気がする。
漱石と接触してゐた三年の間に、漱石と二人きりで出歩いたことは、たゞ一度しかない。 たしか 大正四年の紅葉の頃で、横浜の三渓園へ 文人画を見に行つたのである。
私は大正四年の夏の初めに、大森から鵠沼に居を移した。 その頃に丁度 東京横浜間は電化されたが、鵠沼から東京へ出るには汽車のほかはなく、それも二時間近くかゝつたと思ふ。 木曜日の晩に漱石山房で話にふけつてゐれば、終列車に乗り遅れるおそれがあつた。 それで 木曜会に出る度数は減つたが、訪ねて行くときは、午後早く行つて 夕方に辞去するやうにした。 その頃、門の前まで行くと、必ず人力車が一台 待つてゐた。 客間には 瀧田樗陰(1882〜1925、総合雑誌「中央公論」の編集者。)が どつかと坐つて、右手で墨をすりながら、大きい字とか小さい字とか、頻りに注文を出してゐた。 漱石は いかにも愉快さうに、云はれるまゝに 筆をふるつてゐた。
多分 その関係であらうと思ふが、その頃には 頻りに文人画の話が出た。 いゝ文人画を見た記憶などを 漱石はいかにも楽しさうに話した。 それを聞いてゐて 私は 原三渓の蒐集品を見せたくなつたのである。 三渓の蒐集品は 文人画ばかりでなく、古い仏画や絵巻物や宋画や琳派の作品など、尤物ぞろひであつたが、文人画にも 大雅、蕪村、竹田、玉堂、木米などの傑れたものが沢山あつた。 あれを見たら 先生はさぞ喜ぶだらうと思つたのである。
私は その話を漱石にしたやうに思ふ。 さうして 「それは見たいね」といふ風な返事を聞いたやうにも思ふ。 しかしその点は はつきりとは覚えてゐない。 覚えてゐるのは 漱石を横浜までつれ出すにはどうしたら好からうと 苦心したことである。 予め三渓園の都合を聞いて、日をきめて訪ねて行く、といふ方法を取るのでは、漱石はなかなか腰を上げないであらう といふ風に感じた。 それで、今から考へると まことに非常識な話であるが、十一月の中頃の 或るうららかに晴れた日に、いきなり 漱石を催ひ出しに行つたのである。 こんな日ならば 気軽に出かける気持になるであらう、出かけさへすれば あとは何とかなるであらう、と思つたのである。 鵠沼から牛込まで 催ひに行つたのであるから、漱石山房へついた時には もう十時頃になつてゐた。 玄関へ出て来た漱石は、私の突飛さに 一寸あきれたやうな顔をしたが、気軽に同意して 着替へのために引込んで行つた。
今の桜木町駅のところにあつた横浜駅に着いたのは、もう十二時過ぎであつた。 その頃私は 南京町のシナ料理をわりによく知つてゐたので、そこへ案内しようかと思つたが、しかし 文人画を見せてもらふ交渉をまだしてゐないことが さすがに気にかゝり、馬車道の近くの日盛楼といふ西洋料理屋へはいつて、昼食をあつらへると 直ぐ三渓園へ電話をかけた。 丁度その日に何か差支へでもあれば、変な結果になるわけであつたが、その時には私は その点を少しも心配してゐなかつたやうに思ふ。 電話では、喜んでお待ちするとの返事であつた。 で 私は、自分の突飛さを殆ど意識することなしに、自分の計画の成功を喜びながら、昼食を共にしたのである。
私は その日、のりものの中や昼食の時などに、漱石と どんな話をしたかを 殆ど覚えてゐない。 たゞ一つ覚えてゐるのは、市電で本牧へ行く途中、トンネルをぬけて しばらく行つたあたりで、高台の中腹に 奇麗な紅葉に取巻かれた住宅が点在するのを眺めて、漱石が 「あゝ、あゝいふところに住んで見たいな」と云つたことである。
三渓園の原邸では、招待して待ち受けてでもゐたかのやうに、款待をうけた。 漱石としては 初めて逢ふ人ばかりであつたが、まことに穏やかな、何のきしみをも感じさせない応対ぶりで、そばで見てゐても気持がよかつた。 世慣れた人のやうに余計なお世辞などは一つも云はなかつたが、しかし 好意は素直に受け容れて 感謝し、感嘆すべきものは 素直に感嘆し、いかにも自然な態度であつた。 で 文人画をいくつも見せてもらつてゐるうちに 日が暮れ、晩餐を御馳走になつて 帰つて来たのである。
漱石は 『我輩は猫である』のなかで、金持の実業家や それに近づいて行くものを 痛烈にやつつけてゐる。 また 西園寺首相の招待を断つて 新聞を賑はせた。(明治40年6月、時の首相・西園寺公望は 文学者20名ほどを自邸に招いて懇談会を催したが、漱石は出席を辞退した。) さういふことから私たちは 漱石が権門富貴に近づくことをいさぎよしとしない人であるやうに思ひ込んでゐた。 またそれが 私たちにとつて 漱石の魅力の一つであつた。 しかし漱石は、何時だつたか さういふことが話題になつたときに、次のやうな意味のことを云つた。 相手が金持であるとか 権力家であるとかといふことだけで それに近づくのを回避するのは、まだこちらに 邪心のある証拠である。 為めにする( 気持が全然なければ、相手が金持であらうと貧乏人であらうと、大臣であらうと小使であらうと、少しも変りはない。 ―― 丁度 この言葉に現はされてゐるやうな態度を、私は実際に眼の前に見るやうに感じた。)
瀧田樗陰のことで思ひ出したが、多分 大正五年の春であつたと思ふ。 木曜日の午後に、樗陰は墨をすりながら、今日は先生に大きい字を書かせる といつて意気込んでゐた。 漱石は 半切に「人静月同照」といふ五字を、一行に書いた。 二三枚 書きつぶしてから、今度はうまく行つたと云つて 漱石が自ら満足する字が出来た。 樗陰も、これはいゝ と云つて 暫らく眺めてゐたが、やがて頭をかしげて、先生、この文句は変ですね、と言ひ出した。 漱石は、変なことはないよ、いゝ文句ぢやないか、と答へたが、樗陰は、いや、をかしい、と頑強に主張した。 漱石は立つて 書斎から李白の詩集を取つて来て、頻りに繰つてゐたが、なるほど君のいふ通りだ、人静月同眠 だね、と云つた。 樗陰は、さうでせう、さうでなくちやならない、人静月同照 は変ですよ、と得意だつたが、漱石は、しかしさうなるとまことに平凡だね、といかにも不服さうだつた。 樗陰は、文句が違つてゐちやしやうがない、さあ書きなほして下さい、と 新しい紙を伸べた。 漱石は、君がいやなら、これは和辻君にやらう、中々いゝぢやないか、と云つて、人静月同照の半切を 私に呉れた。 私が直接 漱石から貰つた書は、これ一枚だけである。
私は、人静月同照といふ掛軸を、今でも愛蔵してゐる。 これは 漱石の晩年の心境を現はしたものだと思ふ。 人静かにして月同じく眠る のは、単なる叙景である。 人静かにして月同じく照らす( といふところに、当時の漱石の 人間に対する態度や、自ら到達しようと努めてゐた理想などが、響き込んでゐるやうに思はれる。)
(昭和二十五年十一月) 空白
参 考 |
三渓園訪問
漱石夫妻の家庭内での深刻な葛藤の記述に続く「横浜の三渓園へ文人画を見に行った」話は、漱石像をリフレッシュして本来の円熟した人物として浮かび上らせるための、転換部となっている。 和辻がふと思いついて実行した 三渓園訪問であったが、全て好都合に運んだこともあり、この時期の漱石にとっては、心を寛げる、最高の清遊になったと思われる。
三渓園は、実業家で古美術品収集家としても知られた 原富太郎(号・三渓、1868〜1939)が、横浜市の臨海部に開設した 広大な庭園である。 三渓は、この園内に邸宅を営み、そこに数多くの優れた美術品を収蔵していた。 しかし、ギャラリーのような形で これを公開していたわけではない。
和辻は、あらかじめ原家の承諾を得ることもなく 漱石を案内し、直前に電話を入れたのみであったが、「招待して待ち受けてでもゐたかのやう」な款待を受けた。 これは、文中に仄めかされているように、この家と懇意な関係にあったことによるのである。
横浜の貿易商の家に育った 和辻夫人の照は、三渓の長女・春子の親友であった。 春子は結婚後も、その夫・西郷輝雄とともに 三渓園内の別棟の建物に居住していたというから、和辻夫妻は早くからここを訪れていたのである。 そして和辻は、春子の兄(三渓の長男)善一郎とも親しくなった。 善一郎は、芥川龍之介の中学の同級生で、やはり文学を愛好しており、西欧の思潮・芸術に広く関心を有していた。 その後(漱石没後)の大正6(1917)年、和辻は 親しい友人とともに 奈良の古寺を探訪し、その印象記が『古寺巡礼』(1919年刊)となったのであるが、この書に登場する人物のうち、「Z君」が 原善一郎、「T君」が 西郷輝雄 であるという。 こうした 三渓園サロンともいうべき人々の関係は、早くから形成されていたのであろう。
また、和辻が 主(あるじ)の三渓にも知られ、信頼されていたのは当然で、したがって、漱石の訪問に対しては、三渓が自ら応接し、美術品(文人画)の開陳や説明に当ったことと思われる。 この日のことは、三渓にとっても快い思い出となったことであろう。
なお、原家の長男 善一郎は、父・三渓に先立ち、45歳の若さで、昭和12(1937)年に 病没した。 三渓の悲嘆は大きかったが、その初七日には、善一郎の親友たる和辻と谷川徹三の二人を招き、園内の蓮池のそばの月華殿で 心をこめた茶会を催したという。 8月19日の早朝のことで、谷川の記事には、「蓮の葉の緑はまだ暗に吸い込まれそうで、紅い花弁のみ、ほのかに浮かび出ている。 … 」 と 美しく象徴されている。
「人静月同照」
最後の、瀧田樗陰に誘導された 書の揮毫の話も、ややエクセントリックで、漱石論をしめくくるに ふさわしい文といえよう。
漱石は、はじめ 「人静月同照」と大書したのであったが、樗陰が その字句がおかしいと異議を唱えたため、出典の書を確認して異議を認め、「人静月同眠」に書き改めた。 樗陰はそれで満足したが、漱石はこれでは「まことに平凡」であるとして 不満であったという。 和辻は、書き改める前の「人静月同照」こそ、漱石の晩年の心境を表わしたものとして、的確な解説を加えている。 まことに、その通りであると思う。
ただし、和辻が「(漱石は)李白の詩集を取つて来て」原文との違いを認めた としていることから、この詩句は李白の作品中のものと推定されるわけであるが、「人静月同眠」のようなシンプルで明解な詩句(=名句)が存在するならば、その作品自体が知られているはずだと、筆者には思われた。 しかし、「唐詩選」等の選集や、李白作品の解説書などには見当たらない。 そこで、最も充実していると思われる 清・王g 編『李太白全集』(1957年中華書局、4冊)を調べたが、やはり発見できなかった。 このため、原作は李白の作品にあらず、との一応の結論を下し、本来の原作を見出すべく、webページなどを思いつくままに検索・調査してみた。 すると、詳細は略すが、過去の著名な人物2名が、この詩句を含む「鳥啼花未不落、人静月同眠」の10字を揮毫していることが 判明した。
筆者は このことから、揮毫の際に利用する参考書に掲載されているものと判断し、市河米庵の『墨場必携』に当ったところ、果たして「十字」(10字句)の部分に、「鳥啼花未落、人静月同眠」の句を見出すことができた。 しかし、東北大学の「漱石文庫(データベース)」(すなわち漱石の旧蔵書)に、この書は含まれていないので、同文庫中の類似の書を検索したところ、道富元礼・藤原良国 編『書家自在』を見出した。 画像は無いので、他のデータベースで確認すると、やはり「十字」の部分に同じ詩句があった。 なお、両書とも、小字で「清 徐廷棟」と作者名が付されている。 この『書家自在』は、実力の無さそうな無名の人物が編者になっていることから推測されるように、米庵の『墨場必携』を模倣(というより、ほとんど盗用)した書のようで、同じ部分に同じデータが存在するわけである。 漱石は、それを承知で、実質本位に利用していたのかもしれない。
作者が判明したので、原詩の探索も可能かもしれないが、ここまでで切り上げておく。 漱石は、作品の一部である10字句の中から、さらに後半の5字のみを選び、(無意識に)それを改変したのであるから、もはや原作に遡るのは 意味のないことであろう。
とにかく、漱石が書斎から取り出してきて 確認した書は、「李白の詩集」ではなく、『書家自在』であった。 和辻は 二人のやりとりを傍観していただけで、その書を覗きこむようなことはできなかったはずであり、何か先入観のようなものがあったかして、勘違いしたのであろう。
終