らんだむ書籍館 |
![]() |
目 次
第一 経部 付 釈 第二 注疏部 第三 雑部 第四 跋部 |
本文の一部紹介 |
(はしがき)
サー・オーレル・シュタイン氏(Sir Aurel Stein、1862~1943)が 前後数回 西域地方の踏査によりて獲たる蒐集品は、其一部(昨年蒐集)を除き 全部 大英博物館内シュタイン蒐集室に保管せられ、西域地方の宗教・芸術・史実に関し 実に夥多の研究資料を供せり。 且(しば)らく写本のみにて 梵語、西蔵語、于闐語、亀茲語、土耳古語、支那語の諸写篇を網羅せり。 (「且らく写本のみにて」とは、原本のまま閲覧に供されていた、の意であろう。)
而して予は 専ら大部分は尚未整理中の支那古写本を調査し、主として有伝無伝の古逸書を踪索せんとせり。 然るに 写本中 巻軸・首尾完きもの 僅に百に一、二にして、数千点の巻物若しくは断片は 殆ど破損を免れざりしものなく、是が鑑定に際し 之を奥題に探り得るものは尚容易なりしと雖も、無題失題の断片に遭遇するや、正続両蔵経を身辺に有し得ざりし大英博物館の窰内に在りては、少なからぬ手数を要しぬ。 予は 大正五年六月上旬より十一月上旬に至る間に 約三ヶ月を之が渉猟に費し、一時他処に移されし分を除き 殆んど其全部を査了せり。 初めは専ら筆写せしが 、在室時間に制限あり 従つて調査の進捗 意に任せず 乃ち筆写を傍とし 調査を主とし、珍篇逸書は得るに従つて 是が鑑定に必要なりと推定せし部分を ロートグラフに撮らしめ、漸くにして調査を遂げぬ。 英国を去るに臨み 予は撰出諸写本一部の目録を残し、他は帰朝後になすべきを約し、蒐集室理事は 他日逸書の全部をロートグラフに撮るべき時期の来らんを予想し、其利便を計らんが為に 予が撰出せる写本を別函に保管すべきを語れり。 帰朝後 忙中閑を得ず、未だ詳細なる研究を経ざるも、大略 本目録の第一経部、第二疏部の殆んど全部、第三雑部の大半は 有録若くは無伝の古逸典なるが如し。
本陳列をなすに當り、予が滞欧延期を許容せられし宗恩は固より、予をシュタイン蒐集室に紹介し 入室の特許を獲せしめられし 印度省図書館長トーマス博士、総じては大英博物館員、別しては未整理品の全部を開放して 予の調査を完からしめたるシュタイン博士、戦時中博物館は閉鎖せられしに拘らず 日毎に予の入室に利便を与へられし蒐集室理事ロリマー嬢、写本をロートグラフに撮影し 並に軍事検閲を安全に通過せしむるに就き尽力されし 大英博物館東洋部長バーネット博士、就中 陰に陽に予を策励せられ 特に予が手記類をして軍事検閲に安全なるを得せしめられし 臺灣銀行倫敦支店・佐々木義彦氏に対し、茲に此機会を利用し 深厚の謝意を表す。
大正六年五月十八日 矢吹 慶輝 識
本陳列は、主として ロートグラフのみ。 而して ロートグラフは種板なしの写真なり。 又 此に古逸典と称するは、 正続蔵経中に逸せるをいふ。
一 仏説無量寿宗要経
本経は 現に梵語、于闐語、西蔵語にて存在する三経本あり。 原本たる梵語 幷(ならび)に 于闐・西蔵語の両訳の外、之を漢訳中に探るに 宋・法天訳『大乗聖無量寿王経』 具(つぶさ)には〖仏説大乗無量寿決定光明王如来陀羅尼経〗(成八の七 以下) 是に当る。 然るに法天訳は 之を現存の原本及び于闐・西蔵両訳本に比するに 多少の相違あり。 本写本 仏説無量寿宗要経が殆ど逐字的に合致せるが如くならず。 即ち知る、無量寿宗要経は 漢訳として現存他語にて存する諸本と殆んど同一なる原本より訳出せられしものなることを。 而して 本経は従来未だ曽て世に知られざりし訳本にして、ロンドンに於けるシュタイン氏蒐集品中には 実に数百部の本経写本を蔵せり。 又、ペトログラード亜細亜博物館中 オリデンプールグ氏蒐集品中 三四本を蔵せり。 但し 本経写本は 経文既に書写の功徳を讃嘆せるが故に、同一筆者にして数多の写本を残せり。 此中に 裴文達、田広淡、張貞、学郎、呂興、法栄、張良友、曹興朝 等の諸写本を校合するに、大略二種の訳本あるを知れり。 本ロートグラフは 普通の宗要経にして、両種訳本中 其文稍(やや)簡約なるものは 僅に一本を見たるのみなり。 本経は又 単に大乗無量寿経と称せらる。 英訳は 千九百十五年 牛津(Oxford University)出版 Manuscript Remains of Buddhist Literature found in Eastern Turkestan 中に ヘーレン氏によりてなされ、梵、蕃、于闐語の対照 及び 原本写真を付せり。 和訳は 大正五年十一月の宗教研究(学術雑誌)中に 池田澄達氏によりて成されぬ。 惜むらくは 漢訳無量寿宗要経に訳人の名を闕(か)くも 現に近似の原本を有せる以上、他日 入蔵(大蔵経への追加)の資格あるものと謂(い)ふべし。
三階教断片
三階教は、隋・真寂寺 信行禅師(540~594)に起因す。 信行禅師は、梁武 大同七年 曇鸞大師示寂の前年に生れ、隋・開皇十四年に没す。 浄影寺慧遠 並に天台大師等と 略(ほぼ) 時を同(おなじ)ふす。
唐・貞元十六年、三階教に属する十五部四十四巻(貞元録云 信行禅師撰)を五帙となし、叙して『貞元新定釈教目録道』に牒入せられし事あるも、隋・唐の間 屡(しばしば)勅禁を蒙り、広く諸宗の非難を受けぬ。 就中(なかんずく)浄土教との論難は 載せて『西方要決』 並に 『群疑論』に詳(つまびら)かなり。 隋・開皇二十年(西紀六〇〇)勅によりて三階教の伝行を禁断せるも、智昇(開元録)は 「隋文雖断流行不能杜其根本」といへり。 次で唐・證聖元年(西紀六九五) 制して偽教異端となし、聖暦二年(西紀六九九) 勅して、三階教徒は 唯だ乞食長斉絶穀持戒座禅を得せしめ、其他を行ずるを違法となし、開元十三年(西紀七二五) 諸寺三階院の住侶をして衆僧と錯居せしめ 別住を許さず、又 集録類を禁断せり。 斯くして三階教は、屡 勅制禁圧を蒙りしも、唐の中庸に及んで 余類 尚絶えざりしは、智昇の語によりてのみ 知るべきに非ず。 故に 道宣律師(内典録五)は 曰く、「然其属流広海陸高之」 と。 今 敦煌出写本中に 数多の三階教断片を見ること、寔(まこと)に故なしとせず。
三階教及び雑集録の目録を挙ぐるに、『歴代三寶記』は二部三十五巻、『内典録』は二部四十巻、『大周録』は二十二部二十九巻、『三階興教碑』は四十余巻となし、『開元録』は此等諸録を総括して、三十五部 四十四巻とせり。 其細目は 『開元録』第十八に列挙するが如し。 然るに『義天録』には 僅に『入道出世要法』二巻 及『三階集録』四巻の目(目録)をかゝぐるに過ぎず。 古来 我国に存せし『三階集録』四巻、『法界衆生根機浅深法』二巻すらも 今は存せず、唯だ僅に道忠『群疑論探要記』中の引用文に伝へらるゝのみ。 (以下略)
終