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表 紙
(左下に、黄色インクで「十一月号」と縦書印刷。)


人間 第二巻第十一号 目次


   〔連載 第三回〕処女懐胎  石川 淳
   近代悲傷集         釈 迢空
   ある占星師の話       渡邊一夫
   福沢諭吉の歴史観      小泉信三
   ゴンクウル兄弟       大西克和
   織田作之助の悲劇      暉峻康隆
   
   批評と文壇         中村光夫
   文芸家の美術論       今泉篤男
   
   炭俵集発句評釈(秋の部)  幸田露伴
   
   鎌倉文庫出版だより・編輯後記
    カット : 野口弥太郎・福沢一郎・村山密




「人間」 第二巻 第十一号

 昭和22 (1947) 年 11月 発行、 鎌倉文庫。
 A5版、 本文 64頁。


 先に創刊号を紹介した 文芸誌「人間」の、ほぼ一年後の姿である。



 「一部紹介」としては、小泉信三 『福沢諭吉の歴史観』の前半部分(約2/3位 )を掲げる。
 福沢の思想の独自性を、的確に解説している。






本 文 紹 介


     福沢諭吉の歴史観
小泉信三


 福沢諭吉の歴史観は 明治八年の「文明論之概略」、明治九年の「旧藩情」、明治十二年の「民情一新」に由て 見ることが出来る。 此以外にも参考すべきものは諸処にあるが、重なるものは 右(上)の通りである。 此の中 文明論は最も有名で、岩波文庫本も行われているが、他の二つは今日は流布なく、福沢全集で見るより外はない。  併し その全集も今では手に入り難くなったので、此二篇を(福沢全集緒言と共に)合併して出版することを人にすゝめた関係から 其機会に福沢の歴史観について少し考えて見た。
 十九世紀の終り、ドイツの史学革新論者ラムブレヒトが創唱して以来、歴史観上の個人主義及び集団主義(コレクチヴイスムス(collectivisms))という術語が広く行われるようになった。 ラムブレヒト自身は後者を奉ずるものであるが、福沢の歴史観も此の概称の下に属する。 抑(そもそ)も史学の任務如何との厳密な議論は姑(しばら)く措(お)き、歴史家の興味が事物の変化変遷に向て動かされることは争い難い。 全然不変恒常なる事物は 歴史家の興味の対象とはならぬ。 そうして、その変化の顕著なるものは 戦争変乱等の事件であるから、歴史家の注目が先ず此種の事件及び之を惹き起した(と見られる)人物に向けられるのは 極めて自然のことである。 併し 若し歴史を、全く過去及び周囲と切り離された特殊人物の 恣(ほしいまま)に造り出したものと見るなら、それに由ては何物も説明或いは理解せられず、歴史は学たることを放棄するにも等しいことゝなる。 突如として一人の家康が現れて 三百年泰平の基を開き、突如として一人のビスマルクが現れて ドイツ統一は実現されたというが如き 歴史の叙述が、今日もはや何人をも満足せしめないことは 言う迄もない。 ただ歴史上、特殊人物と、それを載せ、またそれに動かされる時勢や環境と、その何れに何れだけの重量を附すべきかという点に就ては、今日猶ほ 依然として定則と認むべきものはない。 今 仮りに歴史家の主題を、治者と被治者、政治と文化(又は生活)、戦争と平和、事件と状態(又は制度)、個人と大衆、という風に相対照させて見ると、学者により学派により、自らそこに様々の度合に於て その何れを重んずるかの偏向は示される。 所謂 コレクチヴイスト(collectivist)は 常に此等の対照の後者に 重きを措(お)くものである。 そうして 此等の前者よりも後者に重きを措けば、━━ 即ち平時に於ける被治者大衆の日常生活の状態に重きを措けば、━━ 戦争とか革命とかの非常事件や、此等の事件に際しての帝王、将師、政治家の行動に着目する場合に比して、遥に恣意と偶然の支配は少なく、そこに遥に多くの共通的、法則的なるものゝ認められることは 争われぬ。 更に 仮に歴史家の興味は特殊と変化とに向けられ、科学者の興味は共通と不変とに向けられるものとすれば、史学上のコレクチヴイストは歴史家よりも科学者 ━━ と迄はいわずとも、歴史家たると共に 科学者たらんことを期する度が強いものだ と謂い得らるゝであろう。 福沢は 明かに其一人であつて、在来の歴史がただ 「国王歴代の系図を詮索し」、或は 「戦争勝敗の話を記して講釈師の軍談に類するもの」に 強く不満の意を表し、以上の如きことを暗記暗誦しても 「天下古今人事の成行を知らず、其 互に関り合う因縁を知らざれば」 それはただ 無益の骨折りに過ぎぬといったのである。
 度々(たびたび)いう通り、福沢は 西洋にあって東洋の儒教主義に欠けたものは、数理学と独立の精神だといい、終生 此の二つのものを鼓吹することに力を傾けた。 数理学とは、敢て数学というのではなく、理と数とを重んじ、事実の証拠を求める学問、即ち科学である。 福沢が西洋科学を知り、その的確と精密とに傾倒したのは、大阪で緒方洪庵の塾で蘭学を勉強したときに始まるであろう。 洪庵は蘭方医であり、其塾には十冊足らず乍(なが)ら オランダ語の医書物理書があった。 福沢は それを読んで其精妙に感激し、更に某大名所蔵の物理書を借りて、安政三四年(一八五六〜七年)の頃、夙(はや)くも フアラデエ(M.Farady,1791~1867)の電気理論を知り得たことを語っている。 更に遡って考えれば、福沢が一切の迷信に遠く、常に実証実験をお重んずる傾向が強かったのは、一には天性に出たものと見られるが、同時に 彼が、当時諸藩の下級士族一般と同じく、扶持米の不足を補うため 内職の手工労働に従事して、日常労働用具を手にし、各種の生産材料を取扱った体験が、自ら其興味を支配し、其観察を緻密精確ならしめたものと考えられる。 後に始めて大阪から江戸に下ったとき、市中に入って先ず驚いたのは、江戸の工芸の発達であったと自伝に語っている。 彼を驚かした事実というのは、芝の田町あたりの路傍の店で、小僧が鋸(のこぎり)の鑢(やすり。のこぎりの目立てをする「やすり」の意)の目を叩いて作っていたことである。 金物細工をする上には 何よりも鑢が大切である。 福沢は体験によって 痛切に其事を知っている。 ところで たゞの鑢は訳なくできる。 併し 鋸の鑢は六ケ(むずか)しい、之を作ることは夢にも考えなかったところ、それを子供が平気でやっている。 江戸に入って 先ず此事が目に着いたのである。 甚だ些細のように見えるが、此の一小事も福沢の興味観察思考の方向に就いて、何物かを語っている。 福沢自身 後に青年時代の旧知人に与えた手紙の中に、其時代の体験を回顧し、様々の手工技術を学んで、「刀剣の小道具、金銀銅鉄の性質を知り、自宅にては下駄の内職抔(など)いたし、家用桶の輪替、雪駄の直しまで甲斐々々しく働きたるは 生涯の一大所得に御座候」(続福沢全集第六巻六八二頁)といっているのは、気を留めて見て好い事である。 此の興味と傾向が 福沢をして西洋の科学、殊に物理学、化学に惹き着けたと謂い得ると思う。
 物理、化学に驚嘆した後、福沢は 英(米)書によって 西洋の人文科学を知った。 先ず知ったのは 経済学、次いで倫理学であった。 西洋理学に依て知り得た自然は、厳密なる法則の支配する世界であった。 次いで知り得た経済学は、人文科学の中では 法則科学たる性質の最も濃いものである。 殊に福沢が読んだ 通俗的、教科書的経済書は、素朴なる態度を以て 自然科学に比すべき経済法則の支配を説いた。 理と数と証拠の重んずべきを痛感した福沢に取っては、社会人事も亦た 動かすべからざる定則の支配を受けるとの説は、必ず大なる魅惑であったであろう。 その驚喜の情は、後年その頃を回顧した演説の中に 「絶妙の文法 新規の議論、心魂を驚破して食を忘るゝに至れり」 とか 「ポリチカルエコノミー(political echonomy (=経済学、echonomics))は実に面白く、その精密なること着々意表に出で、「恰(あたか)も我々に固有する漢学主義の心事を転覆したり」 とかいった言葉に現れている。
 これが 幕末から明治へかけての事で、慶應義塾の旧記録によれば、福沢は 慶応四年即ち明治元年にはアメリカ書ヱエランドに拠って経済学を、翌明治二年には同じヱエランドに拠って倫理学を塾で講じている。
   然らば 歴史はどうか。 無論、福沢が歴史と自然科学とを同一視したと謂うべきでなく、また 歴史上に於て 物理、化学等に於けるが如き 厳密なる必然の事前決定を下し得るとは考えなかったであろう。 併し 少なくも消極的に、これだけの事は言い得るであろう。 即ち 歴史を単に恣意と偶然とのみが支配するところと看ることに甘んじないこと、これである。 既に 福沢の如く、事物の「理と数と」証拠を求めんと欲するものは、歴史を遡って、例えば 偶々(たまたま)一人の家康に依て徳川幕府は定められ、偶々一人のビスマルクに依てドイツ統一は遂行された という如き説明には満足せぬであろう。 そうして 何故に、如何にして、との問に対し、家康は家康なるが故に彼の事を成し、ビスマルクはビスマルクなるが故に此の事を成したといえば、それは何も答えないに等しい。 因果必然の連鎖を辿らなければ承知できないものは、必ず家康(またはビスマルク、其他々々)を促して 彼の事(または此の事)を成さしめたものは何か、を彼等をして能くそれを成し遂げ得させた条件は何か、問うであろう。 又 更に此等の事情や条件は、果たして彼の特定の人物以外の者には同じ事を成さしめなかったろうかとの問を含む。 此考察は、当然 人を導いて普通に世の大勢と称せらるゝ一聯の働因に想い到らしめる。 世の大勢に注目することは、必しも歴史上に於ける特定個人の役割を否認せしむるものではないが、歴史の考察上、恣意と偶然の支配の承認を甘んじないものは、特定の個々人よりも 世の大勢により多くの興味を感ずるのは自然である。 福沢は夙く多くの史書を読んだ。 少年のとき、中津藩儒白石常人に従学して、歴史は 史記を始め前後漢書、晋書、五代史、元明史略等を読み、殊に左伝は最も愛好して、全十五巻 凡そ十一度び読み返して 面白い処は暗記する迄になっていたが(福翁自伝)、既に一たび西洋科学の門を潜った福沢を以て見れば、是等の史書も 満足し難いものであったろう。 前に王室系図の詮索または講釈師の軍談に類するものと評したのは、嘗て自ら愛読した史書類に対する 福沢の批評とも聴くべきである。
 福沢の此の傾向を助長する上に最も有力であったと思われるのは、蓋(けだ)し トオマス・バックルの「英国文明史」の影響であったろう。 それは「文明論之概略」に就いて指摘することが出来る。 勿論 「文明論之概略」は 独立の見識に富み、殊に其の最後の章に於ける国家独立論は 純然たる日本人 福沢の主張であって、寧ろバックルの思想基調と相隔たるものであるが、而かも此書の歴史観に関する部分には、明かに彼れに得たと見るべきものが多く、著者自身バックルの名を挙げて 其説を引いているところもある。
 英国文明史第一巻は 一八五七年に出た(第二巻は一八六一年)。 我が、安政四年 即ち福沢が大阪から江戸に出た前年である。 バックルは 歴史を進めて法則科学の域に達せしめんとした。 此書は 著者の文明の進歩に対する確信と、保守主義に対する攻撃と、暢達自由なる文章等に依り、科学信頼の風潮にも投じて、出ると忽ち好評を博し、各国語に翻訳せられて、ロシヤ農民の小屋にさえ其訳本が見られたという程 広く行われた。 此文明史が何時頃日本に渡来したかは 今尋ねられないが、慶応義塾では 明治四年(一八七一年)頃から月六回 福沢のギゾオ、バックル両文明史の講義が行われ、殊にバックル講義は頗る精彩に富んだものであったと伝えられている。(石河幹明、福沢諭吉伝)
 バックルは此の書で、歴史を一の科学に高め、殊に統計的方法によって 文明進歩の法則を打ち立てんことを期した。 殊に 統計法によって 文明進歩の法則を打ち立てんことを期した。 彼は往々 歴史を左右する自然的条件の力を説いたものと見られているが、それは説の半分である。 歴史の動因は 自然と精神の二つであるが、自然の威力の寛厳共に過ぎたるところでは、精神は発達せず、独りその適度なるヨオロッパに於て、精神が自然を支配するというのである。 精神の中、人類の進歩は徳と智と その何れに因るかといえば、徳は静止して動かぬものであるから、独り智の変化と進歩とに因る。 人類総体の行動は 人類の有する知識の総体の左右するところに委せられる。 個人の努力は 歴史の経過全体の上から見れば 言うに足らず、英雄も時代の産物たるに過ぎぬ。 文明の進歩は 疑い究めんとする心に正比例し、「軽信」即ち既成の信仰と慣習を吟味なく保守せんとする精神に反比例する。 これが 其の要旨である。
  「文明論之概略」を見ると、明らかにこれに受けたと思われる章句がある。 第四章に、人心の変化は 統計法によって能く其の定則が立てられる というのが 夫(そ)れ。 同じ章で、国の治乱興廃はニ三人の能くする所に非ず、「全国の勢は進めんとするも進む可らず、留めんとするも留む可らず」というのが 夫れ。 第六章に、徳義の事は右より定まりて動かず、智恵は則ち然らず、「日に進て際限あることなし」というのが夫れ。 第七章及び略ぼそれと同じころ書いた「学問のすゝめ」に「信の世界に偽詐多く、疑の世界に真理多し」。 西洋諸国 今日の文明は「疑の一点より出でざるものなし」というのが 夫れである。
 併し、稍々(やや)専門的に亘る統計法云々は別とし、其他の諸条は敢て他人の教を待つまでもなく、既に上述の傾向に徴し 福沢としては十分単独に考え到り得るところであり、之をバックルに得たというよりは、バックルを借りて 其胸中の所懐を吐露したと見るべきところも多分にある。 福沢のバックル講義が引例縦横、気焔万丈のものであったと伝えられるのは 当然であろう。 バックルの原著は 一世の好評を博したに拘わらず、専門歴史家の間には素人論として冷かに遇せられた嫌いがあり、或はオウギュスト・コントの歴史観に学んで之を偏頗に誇張したと評するもの(ベルンハイム)もある。 そうして 其批評にも相当の理由があるが、其にも拘らず、英国文明史は、動(やや)もすれば帝王将相の功業の記録に専らで、往々「太鼓とラッパ」の記事に過ぎなかった在来の歴史に対し、十九世紀の科学主義の立場からは発せられた不満と批判の表明として 十分に有意義の著述であり、在来の史書とは違った別の視覚、別の史材の扱方を、殊に一般読者層に示して、たしかに世論を動かした。 「文明論之概略」の我国に於ける貢献も 正にこれに比すべきものがある。 よし 多くの知識を彼れに仰いだとしても、其気魄識見文章に至っては 福沢固よりバックルに遜(ゆず)るものではない。 例えば、その新井白石の読史余論を引き、天下の大勢九変して武家の代と為り、武家の世 又五変して徳川の代に及ぶ といったのを評して、九変五変というも畢竟ただ同じ治者階級の内部に於て政権担当者が変ったというに過ぎず、治者が治者であり、被治者が被治者であることは 少しも変って居らぬ。 「概して云えば日本国の歴史はなくして日本政府の歴史あるのみ。 学者の不注意にして、国の一大欠点と云う可し」(第九章)というが如きは、評せらるる人、評する人と 其の論旨を併せて、之を我学問史上の一壮観と称すべきものと思う。

(以下 省略)



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