密教の区分


 インドに始まった秘密仏教は、中期密教までが中国を経て日本に、後期密教がヒマラヤを越えてチベットに伝わった。ところが発祥地のインドでは、密教は次第にヒンズー教に勢力を奪われ、十三世紀に侵入したイスラム教徒に息の根を止められた。中国では唐の衰退とともに顧みられなくなったため、現在でも盛んなのは日本とチベットの密教のみである。後者に関しては、チベットと中国本土の青海省や雲南省、甘粛省のほか、モンゴル、ネパール、ブータン、インドのラダック地方でも行われている。
 時代的な区分では、初期、中期、後期の三つに分けられる。仏教が呪術を取り入れた初期は、日本密教でいう雑密に当たり、現世利益中心の雑多な印象が強い。それを仏教の教理に基づいて体系化したのが、『大日経』や『金剛頂経』を中心とした中期密教である。そこには後期密教に見られる性的表現は現れていない。ただし、人間の欲望を肯定的にとらえる「大楽思想」の広まりは、『理趣経』などには見られ、男女の性交さえも清らかなものと表現されている。ただし、それはあくまで言葉の上においてである。
 日本の中期密教は弘法大師空海の伝えた真言密教と、伝教大師最澄に始まり、円仁、円珍を経て安然あんねんで完成する天台密教に大別できる。前者は『金剛頂経』と『大日経』それに『理趣経』を重んじる。後者は『蘇悉地そしっじ経』『大日経』『金剛頂経』に顕教の『法華経』『涅槃経』を重んじる。南北朝期に真言宗の異端、立川流が大流行した。これは真言密教に陰陽道おんみょうどうが習合したもので、『理趣経』に説かれた男女の交わりを比喩としてではなく、文字通り肉体行為として実践したり、精液を塗りつけた髑髏に神下ろしをしたりした。この時期は元朝との交易があったので、チベット仏教が国教だった元から、後期密教の思想が流入していた可能性もある。ただし、その後立川流は邪教として、徹底的に弾圧され消滅してしまう。
 チベット仏教を考える際に、チベットの大学者、プトゥン(一二九〇〜一三六四)の分類法を参照するのが有効である。プトゥンによれば、密教は四種類のタントラに分類される。日本の雑密に当たるのが「所作タントラ」で、『大日経』は「行タントラ」、『金剛頂経』は「瑜伽ゆがタントラ」であるとされる。後者の二つは日本では「純密」とされ、それ以降の密教は正式には日本に伝わらなかった。それに続く後期密教こそが、現在チベットで行われている「無上瑜伽タントラ」である。それは方便・父タントラの『秘密集会ひみつじゅうえタントラ』、般若・母タントラの『ヘーヴァジュラ・タントラ』と『サンヴァローダヤ・タントラ』、それに両者を総合した双入不二タントラの『カーラチャクラ(時輪)・タントラ』から成る。チベット仏教の中で圧倒的な優位にあるゲルク派では、父タントラ系の『秘密集会タントラ』を最も優れた経典としている。母タントラ系の経典は、墓場で男女が肉体で曼陀羅を形作り、相手を変えながら性交を重ねていくなど陰惨なイメージが強い。『カーラチャクラ・タントラ』は仏教最後の、そして最高の経典であるという評価がある一方、敵対していたイスラム教の影響があると言われ、また最終戦争の予言などの記述もあるため、正当な仏教経典とは認められないという意見もある。

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