今年の始まりは「花美術館Vol.40 特集ルノワール」(発行:渇ヤ美術館)の現代絵画のページへの掲載に始まりました。
一見するとモネにも似てたりするし、評論にもご指摘を受けたようにボナールの絵に学んだ絵の具の扱いもあるのですが、両者とも丸顔で晩年のルノワールが好んだモデルさんにどことなく似ています。 何より要所要所にみられる絵の具の盛り上げがやっぱりルノワールなんですね。 花咲く丘の部分 ルノワール先生を心の師とするなごやひろしとしては、よくぞ選んでくれましたと、深く感謝申し上げる次第です。 そんな訳で、最初印象派及び後期印象派などと呼ばれる近代フランス絵画の巨匠の人々に大きな影響を受け、ある意味彼らの作品と肩を並べる日を夢見て絵を描いてきた日々も、足掛け四十年を超えましたが、未だ職業画家とは言えない現状ではあります。 まあ、もっとも、世の中には生前ほとんど絵を売らずに生きた画家も居られ、それはそれで立派であり、『無名に生きる』と達観できれば問題はないのですが、これまた私は凡俗の域を出れず。 人生を掛けるだけ掛けてしまい、今更、引き返すこともできず。 最後まで俗人としてあがき通すしかないなと思っているわけです。 当初は「洋画家」と呼ばれる画家として日本国内でやっていきたかったのですが、何をトチ狂ったか?二十代の終わり頃、マチス展を見ている時に、あまりに大勢の人が来ていて(特に若い女性が多かった)、『こりゃ〜大変だ!見るだけならみんなわかるようになるだろう、日本で洋画家をやるにしても、彼ら(マチスやピカソ)と同じ芸術性を持たないと商売にならないぞ』と思ってしまったのが、運の尽き、行けども行けども売れないこと売れないこと。 当初は「人間みな同じ、自分が心から良いと思える絵ができれば必ず人も解ってくれるはずだ」と思い、明日は良い絵を描こう、明日は・・と試行錯誤の日々、しかし40歳くらいの頃、世間との違和感も覚えるようになりました。 でも、「繰り返し見てもらえば・・」と、なけなしのお金を叩いて書籍のお話や展覧会等に付き合うようになりましたが、五十歳を過ぎて友人知人になくなる人出てきて、「こりゃ〜僕の目の黒い内には日本で売れるようにはならないな」と思いました。 で、フランスを目指すことにしたのです。 なるべく持てる資源をそちらの方向に集中するようにし、絵もフランスを意識してリメイクしてと、ここ数年そのチャンスも巡って来るようになったのですが、流石に目覚しい成果を上げるには至っておりません。 しかしその過程で、いくつかの現地での感想等を届けて頂きました。 その一つは「リキテンシュタインのようだね」でした。 え!リキテンシュタイン?アメリカンポップアートの? 何しろ私は自分ではフランスのフランスのと思い込んでいたので意外な気がしました。 果てはギャラリーモナリザの女性オーナー兼ディレクターさんに「ウエスタン映画のよう・・」との評をいただくことに、まあマドモアゼルにウエスタン映画と言われたんじゃ敢え無く撤収再起を誓う言う事になるわね。 でも言われて良く考えてみると、自分では近代フランスの作家を勉強し、フランス張りのタブローを目指して来た気でいましたが、確かに、絵を作る過程で、ある女優さんの写真集を利用していて、それは印刷されて領布された(ポップな)像をアートすることに、また現在の○や△□を基本単位として構成するところは、活字を使ったポップアートに一脈通じます。 そんな訳で、結局私の絵はポップアートと言うべきではないかと思う今日この頃 辿り着てポップアートの麓に立つ てなとこかと それにしても長く掛かってるね、印象派から始まり四十年近くをかけ、やっと戦後のアメリカンポップアートに この調子じゃ現在に追いつくにはどれくらい掛かるんだじゃ?生きているのかね
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