ショーの最後でソプラノ歌手がDon't cry for me Argentinaを歌い上げたのを聞いて心を動かされた。久野綾希子が日本語で歌った映像がYouTubeにある。http://www.youtube.com/watch?v=Rdzyp-0cF1U
Argentinaの貧しい民衆~から愛された大統領夫人(1946-52)Eva Peron、愛称Evita、を題材にしたミュージカル"Evita"が1976年にLondonで、後に米国で上演され、1996年にはMadonnaを主役にした米国映画"Evita"が上演された。その中でこの英語の歌が歌われMadonnaのレパートリになった。
EvitaはBuenos Aires県の貧しい地域で妾の子として生まれた。古来妾の子に美男美女は多い。生年は教会の記録は1919年だが、戸籍は同じ誕生日で1922年生まれになっている。1945年にPeron大佐(1895年生)と歳の離れた結婚をした際に、3年若くした戸籍を捏造したと信じられている。
Evitaの家族は父親に捨てられ、母親は針仕事で5人の子供を育てたが、Evita達は私生児を嫌うカトリックの影響で後ろ指を差されて育った。兄達が働けるようになってから、Evitaは学校に行けるようになった。学校の演劇を経験したEvitaは、大女優になると決心し、15歳でBuenos Airesに出てラジオのオーディションを受け、極貧の中で女性の武器を活用しつつ徐々にドサ回りの女優として、またモデルとして頭角を表した。23歳で有力ラジオ網で毎日ドラマに出演する役を得てから生活は急に安定し、人気が高まったおかげで翌年には国一番の高給取りのタレントになった。
1944年にAndes地方のSan Juanで数千人が死亡する大地震があり、労働大臣だったJuan Peron大佐は救援資金を集めるためにチャリティー芸術祭を開いた。スターが呼ばれた中にEvitaも居て、二人は初めて会って互いに愛情を持った。Peronの方針で、ラジオ出演者は労働組合を持つべしとの政府方針が出され、Evitaは組合委員長になった。直後にEvitaはPeronを応援する番組を始め、これが一般民衆に大きな影響力を持った。
Peronを中心とする軍将校のグループが政治的な影響力を高めた。時の大統領が任期途中で辞任したのはPeronの働きだったという。Peronの友人が大統領となったが、Peronの力を恐れた反対派がPeronを逮捕した。何十万という群衆がピンクの政庁Casa Rosadaを取り囲みPeronの釈放を要求したため、Peronは釈放された。ミュージカルではEvitaが放送を通じてその影響力を発揮したという筋になっているが、歴史家は当時Evitaにはまだその力は無かったとしている。釈放の翌日二人は正式に結婚した。
Peronは大統領戦出馬の決心をし、Evitaと共に遊説に回った。どこでもラジオ人気タレントEvitaの人気は凄かった。既に金持ちになっていたEvitaだが、下層出身であることから貧しい人達の代表のように位置づけられた。そのお陰もあってPeronは1946年に大統領に選出された。
Eva Peron基金が創設され、寄付金で靴、ミシン、鍋、などを貧しい民衆に配り、奨学金、家屋建設、病院建設などを行ったが、私財蓄積に一部が回ったともいう。Evitaは女性Peron党首になり、労働保健大臣として労働者の保護に尽くした。女性参政権が認められた1952年の選挙でPeronは再選され、Evitaは「Argentinaの精神的指導者」のタイトルを得た。しかし既にEvitaは癌に犯されていて、同年に33歳で太く短い人生を閉じた。
Don't cry for me Argentinaは、ミュージカル第2幕でPeronが大統領に選出された時、Casa RosadaのバルコニーからEvitaが民衆に向けて歌うそうだ。歌詞は「今私は綺麗なドレスを着ているが、元は惨めな少女。私は皆の仲間。支援を。」という内容だ。ただ民衆は人生の頂点に立ったPeron夫妻を祝福しているのに、なぜDon't cry for meなのかが私には判らない。一部の和訳は「叫ばないで」としているがそうではあるまい。嬉し泣きでもおかしい。Evitaが早世してから四半世紀経ってからのミュージカルだから、早世の悲嘆が入れ混じっているのか。しかしその点の理解不能にも拘らずこの部分のメロディーは哀愁を帯びて私の心を打つ。
Buenos Airesで、花に埋まったEvitaの墓所に彼女の人気を実感した。またCasa Rosadaを初めて見て、あのバルコニーにPeronとEvitaが立ったのかと感慨を新たにした。今は初めての美人女性大統領が立つ。 以上