正月2日に伊東市の七福神を巡った。礼拝するわけでもないのだが、関係ある地元の古刹には大いに人文地理的な興味がある。6箇所は曹洞宗・日蓮宗の寺院だった。寺に七福「神」とはこれ如何に? 実はほとんどはヒンズー教から仏教に入った神である。それに道教の神(福禄寿と寿老人)と日本古来の神(恵比寿)を仏教が巧みに取り入れた。
我々はまず車で伊東市郊外の萩にある曹洞宗林泉寺を訪れた。伊東は海の街だが、大室山の北西の麓、恐らくは溶岩流の上に静かな山里がある。部落の外れの山裾にある境内には県天然記念物の巨大な藤の古株が2本あった。花の季節には藤棚がさぞ見事であろう。本堂に上がりこんでしばし家捜しの結果、隅に30cmほどの木彫の福禄寿を発見した。観光協会発行のスタンプ帳もあったことが後で判ったが、我々は寺務所で朱印帳を購入した。スタンプは軒先でタダだが、我々は7箇所でお布施を納めつつご朱印を押して貰う事になった。仕上がりはこの方がずっと権威がある。
車を市内に進め市役所に駐車した。伊東市の市役所は天守閣のように山頂に聳える。恐らく隣接する日蓮宗の古刹仏現寺の敷地の一部を譲り受けたに違いない。日蓮上人が鎌倉の既成仏教をコキ下ろしたので幕府の逆鱗に触れ伊豆に島流しになった際、伊東氏が創建した小さな毘沙門堂で2年暮らした跡にこの仏現寺が建てられた。日蓮上人はその後許されて鎌倉に戻ったが、主張を曲げなかったため2度目には佐渡に流され、その後富士西麓の身延の領主に救われた。仏現寺の本堂は、山のような供え物と、祈願して欲しい人名を何人も用紙に記載する地元の人でごった返していた。巨大な毘沙門天が本堂の左手に安置されていたが、本当は日蓮上人時代の小さな木彫の毘沙門天像があるはずだ。長い石段を下って町に出た。
葛見神社には樹齢千年幹回り16mの国天然記念物の樟(くすのき)があり、民政党総裁若槻礼次郎がこれを称えた石碑がある。樟といえば熱海の来宮神社の巨木も有名だ。樟の谷に祭られた「木の宮」だったに違いない。伊豆は樟の育つ土地柄なのであろう。この神社は伊東一族の氏神で伊東市の守護神とのことだが七福神とは関係ない。その近くの山手に曹洞宗東林寺があり、敵討ちで有名な曽我兄弟の首塚がある。兄弟の父は伊東祐親(すけちか)の子で河津三郎祐泰、所領問題で不仲な相手を相撲大会で今も四十八手にある「河津掛け」で投げ飛ばしたため恨みを買い、遠矢で暗殺された事件の仇討ちだった。境内に布袋様の小さな社があった。
再び町に下って伊東の中央を流れる松川のほとりに出ると、市天然記念物タブの大木の音無神社があった。伊豆に流された源頼朝は後に伊豆山の辺りで北条政子と結ばれ、北条執権幕府へと歴史は動いた。しかしその前に頼朝は祐親の娘八重姫と夜な夜なこの地で密会し一子をもうけたが、祐親は平家を恐れて赤子を松川に沈めてしまう。その菩提を弔うためにこの地に西成寺を創建したのが、後に音無神社と最誓寺になったという。祐親は後に頼朝に捕まり自害する。市文化財の伊東氏歴代の墓所がある曹洞宗最誓寺には30cmほどの木彫の寿老人が居た。
町を横切り北側の山に登った所に日蓮上人開眼の20cmほどの木彫の大黒様のおわす日蓮宗朝光寺があった。手持ちの地図が間違っていて登り口が見つからず、通りがかりのバイクのおじさんに尋ねたら、バイクをゆっくり走らせて判る所まで案内してくれた。こんな親切な人は今時居ない。寺からは伊東と相模湾が一望できる。下って伊東駅の近くで昼食を取りながら休憩し、伊東駅の東側のガードを潜ってまた北山に登った。曹洞宗松月院の広大な敷地には見事な日本庭園があり、その一角の弁天堂にカラフルな弁天様が居た。既に寒桜が満開なのはさすが伊東だ。
伊東駅からタクシーで南下し、伊東漁港を望む丘の新井神社に恵比寿様を訪れた。魚を抱いた恵比寿様は漁港に相応しいと思ったのだが見当たらない。社務所で伺うと厨子に納められているから写真で見て下さいと言われた。昔漁夫が浜に流れ着いた恵比寿様をここに祭った所大豊漁だったという。1月7日の裸祭には神輿がジャブジャブ海に繰り出すそうだ。
伊東の脈々とした地方文化に触れた1日だった。 以上