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短編随筆シリーズ「うつせみ」より代表作 Photos of flowers, butterflies, stars, trips etc. '96電子出版の句集・業務記録

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うつせみGeneral
2017年12月29日
          日本史の内幕

 NHK-BSの番組「英雄たちの選択」の司会磯田道史氏が新著を出した。
  日本史の内幕 磯田道史 中公新書2455 2017/10
戊辰戦争に加わった高祖父が残した古文書を少年時代に読み解いたのを嚆矢に、徹底して古文書解読に基づく歴史学を展開している大学教授だ。古文書を新発見したり参照したりすると、日本史の通説とは違うことが色々分かると、64編の短編随筆を収めている。文体から新聞の連載コラム記事かと思ったが、そういう言及は無いので書き下ろしかも知れない。

 NHK TVの大河ドラマ「おんな城主 直虎」は男性だったという新発見の報道を記憶していたが、本書によれば次のような事実関係だという。@「おんな城主 次郎法師」は実在し、1568年旧暦9月までは権力の座にあった古文書がある。A次郎法師の母方の従妹の口伝を子孫が百年後に書き残した資料が2016/12に発見された。(大河ドラマで矢島健一が演じた井伊谷担当の今川重臣の)「関口越後守氏経の子を少年ながら井伊家当主にした」と。但し時期不明、直虎と名乗ったか否かも不明。B1568年11月に「次郎直虎」に言及した唯一の古文書がある。男か女かは不明。C1568年12月に井伊谷は徳川家に併呑され、今川家は信玄に滅ぼされた。

 これらの事実から筆者は、(a)少年は今川の戦時傀儡当主だったが極めて短期だったろう。(b)次郎法師が直虎を名乗ったのか少年が名乗ったのかは不明。但し次郎法師=直虎説に分があるように感じているようだ。

 「秀吉は秀頼の実父か」も面白かった。秀吉は何十年・何十人にもわたって子が出来なかったので、淀殿だけに2度の出産があったのはおかしいという状況証拠は昔から語られてきたが、さすが筆者の観点は異なる。秀頼の出生の日から妊娠の日を逆算すると、秀吉は朝鮮出兵のために今の唐津市の名護屋城に居た。名護屋城に淀殿は居なかったようだと言う。淀殿が名護屋に居たという古文書は1つだけあって、部外者が故郷に「淀殿も来ているらしい」と書き送った手紙が発見されている。一方秀吉の近くに居て側室の世話も担当していた人の記録には、秀吉は側室京極殿を伴った記録は詳細にあるが、淀殿への言及は無い。よって上記の手紙は、京極殿が来ているのを淀殿と間違えて記載したに違いないと筆者は言う。

 「忍者子孫たちとの交流」という一遍があった。本能寺の変の際に家康が伊賀越えで国元に逃げ帰ったルートを、今忍者の子孫と徳川宗家当主とでたどるバスの旅をして、筆者が解説者として同行したという。なぜ家康は無事に伊賀を通過できたのかと筆者は問う。その前年に信長は伊賀で忍者の大虐殺を行った。他国に逃げた者まで追跡した。信長配下の家康だが、自国に逃れて来た忍者は全て保護したので、恩義を感じた忍者も多かったという。現代のバス旅行が終わった日に、或る忍者の子孫に紹介され、訪れると山のように古文書があった。そこに信長の圧政で当主を失いながら2歳児を守り育てて家系をつないだ歴史が記されていたという。

 筆者は旧熊本藩主細川家の永青文庫の評議員でもあり、2016年の熊本地震に衝撃を受けたという。東北で大震災があると、数年後に熊本で大地震が起こることを、古文書から筆者は知っていたという。直近では1611年の慶長三陸地震の後、1619年に肥後八代地震が起こり、1625年に肥後熊本地震があった。今回と同様に数日のうちに地震は東北東に伸びたと。熊本城のように石垣が地震で崩れるメカニズムは、石垣の裏側に詰めた小石が踊って石垣を押し出すからだという。その防止には、網に詰めた小石を使うか、石垣の隙間に鉄筋を押し込んで石を抱え込んで固定するそうだ。

 2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」で、黒田官兵衛は当初播磨の姫路城主だった。急に成り上がった黒田家だけに、姫路の前の父祖の地に疑義があるという。徳川幕府に提出した先祖報告では「近江の佐々木源氏が先祖」とし、近江-->備前福岡(岡山県瀬戸内市)-->播磨姫路としていた。播磨の黒田庄(兵庫県西脇市)-->播磨姫路の説もあったが、後に博多に城を築いた際に備前福岡に因んで福岡城としたという言い伝えと矛盾する。筆者が岡山で発見した古文書によれば、備前福岡にも黒田家があったので、恐らく播磨黒田庄-->備前福岡-->播磨姫路ではないかと筆者は言う。以上