9月8日のNHKのクローズアップ現代は、8月29日以降の米New OrleansのHurricane Katrinaの被害を取り上げた。災害対策庁FEMAがテロ対策の国家安全保障省の一部門に格下げされ、予防と救援が遅れたという。
New Orleansは周知のように大河Mississippiのデルタ地帯にある50万都市で、郊外まで含めて130万の人口を持つ。普通はNile河の河口のように河が扇子の骨のように広がり、名の通り三角形のデルタが発達する。しかし水流の変化が少ないMississippi河は、両岸に堆積物を積み上げながら一本の大河のまま蛇のようにMexico湾に半島を突き出す。だから河の両側には、埋め損なった湖が大小無数に残る。河が左にカーブしながら東行する部分があり、左岸の凹部には周囲よりも数米高い堆積物が溜まる。この高みに元々のNew Orleansは建設され、その形からCrescent(三日月)Cityと呼ばれた。従って南側はMississippi河に接し、北側は元来は広大な沼地で、その北の汽水湖Ponchartrainに続く。
私にとっては半世紀前に一度訪れただけの街だが、大変印象深い懐かしい街だ。Illinois大の大学院生だった私は真冬に、常夏のFloridaの行楽地にあったRCAのComputer工場その他を見学に出掛け、帰路にNew Orleansに飛び、Chicagoとの間で隆盛のIllinois Central社の鉄道幹線で冬真っ只中のIllinoisに戻ってきた。旅の最終段階で現金が不足し、日本領事館を訪れて領事殿に個人小切手を裏書して貰って列車の切符を買った。このトラブルが無ければもっと観光できたのにと残念で、その後も再訪の機会を窺ったが果たせなかった。印象深かった点は、French Quarterという旧市街のたたずまい、市の北側の湖に面した公園が沼地の森で幽玄の世界だったこと、それに古い家柄の上流階級が誇らしげに仏語で会話していたことだった。旧市街のホテルで目覚めると霧の早朝だった。対岸の見えないMississippi河を渡る橋脚の高い長大橋が霧に霞んでいた。その方に歩いて行くと、黒人の港湾労働者が大勢働いていた。河畔には背丈より高いコンクリートの壁があって、容易に河面が見えない。やっと壁に上って憧れのMississippi河を見て驚いた。意外に水位が高かったからだ。
列強が覇権を競った1718年、この街はLa Nouvelle-Orleansの名で仏の水運の拠点として創建された。Jeanne d'Arcの町、中仏Orleans市に因んだ名かと思ったら、当時の仏為政者Orleans公爵に捧げた名だそうで、言わば間接的な関係だった。後にMexicoで勢を得たスペインの領有となるが、Napoleonがスペインを破り、New Orleansを含むLouisianaを取り戻して2年後1803年に、Louisianaを米国に売却して戦費とした。以降New Orleansは南部諸州に奴隷を送り込む奴隷船の基地として栄えた。幸い南北戦争では北軍が無血占領したため、街は破壊を免れ、仏と黒人を中心に多重文化の街として成長した。今は観光と石油採掘・精製の街だ。
1910年に干拓が始まった。湖に沿って堤を築き巨大ポンプで沼地の排水を始めた。お陰で沼地は乾き、広大な土地が生まれたが、排水は地盤の沈下を招き、旧市街までが河面より低くなってしまった。New Orleansはこのため堤防とその上に築いた水防壁に囲まれた城砦都市のようになった。湖から街には数本の運河が引かれたが、地面より水面が高い。
Hurricaneが近付く際の東風で開口部からPonchartrain湖に吹き込まれた海水が、通過中の北風で南に吹き寄せられ、水嵩が4-5m増した上に2mの波が生じ、運河の60cm厚の水防壁が3箇所押し倒されて決壊し、市の80%が水没した。百年前からの堤防や半世紀前の水防壁自体も沈下していたのに補修が不充分だったという。それにしてもTVで見る限り被災者は黒人ばかりだ。台風上陸の5日前に市初の強制退去命令が出て、前日には全市バスが避難に使われたのに、退避できなかった人たちだ。白人は郊外に居を移しているのであろう。Bush大統領の母親は9月6日にSuperdomeを見舞い「恵まれない人達だから、現状は結構恵まれている」と記者団に語り物議をかもした。略奪や放火が起きているのは真に悲しい。
決壊部分は9月4日に仮閉鎖されポンプ排水が始まった。New Orleansの救済と復興を願い、僅かながら米赤十字に送金させてもらった。 以上