国民の間に燎原の火のように広がった反体制運動は戦後幾つかあった。それを年頭に当たり振り返って見るのも老人の役目かも知れない。 終戦後生活が少し良くなって来た頃に起こったのが講和問題だ。吉田茂首相は朝鮮戦争(1950-53)とその予兆を好機と見て米国に講和を持ち掛けた。冷戦の一方である欧米側に日本を位置付ける方向の単独講和(多数講和)に対して、貴族院議員兼東大総長(1945-51)の南原繁教授は1949年に「冷戦は将来戦争になる可能性がある。日本が巻き込まれないためには絶対中立を守るべきで、ソ連を含む全面講和が必須」と主張し、学界の多くがこれに賛同した。日本共産党と社会党がこれに乗ったため、国民的な全面講和運動が盛り上がった。吉田首相は「永世中立や全面講和は言うべくしてあり得ない。それを主張する南原教授は曲学阿世の徒」と名指しで非難し、佐藤栄作幹事長も「象牙の塔からの全面講和の主張は日本のためにならない」と非難した。国民的な反対運動にも拘わらず吉田首相は単独講和を進め、San Francisco条約を1951年に締結し翌年批准した。
講和条約と同時に日米安保条約が結ばれ、米軍の日本駐留が位置付けられた。岸信介首相は1958年から日本の地位向上を目指して改訂交渉に入り、@在日米軍への攻撃の際には自衛隊も防御に参加することを譲る代わりに、A在日米軍の配置や装備の変更の際は日本と事前協議を要するとし、1960年に調印して批准に掛けた。しかしそもそも安保に反対だった日本社会党・日本共産党は、全学連・総評と共に「日本が戦争に巻き込まれる」と反対し、安保反対の国民運動を盛り上げた。その中でデモに参加していた東大の樺美智子さんが機動隊との衝突の際に亡くなった。
岸首相はEisenhower大統領の訪日予定までに批准しようと、強権を以て議事を進めデモを弾圧したので、国民の不満は「東条内閣の閣僚だった岸首相の辞任を求める」「岸内閣打倒」の方向にシフトした。米大統領の訪日は無期延期となったが、岸首相はクビと引き換えに批准を得た。池田勇人内閣が国民所得倍増計画を掲げると安保闘争は下火になった。
成田空港反対運動があった。1966年に佐藤栄作首相は三里塚に成田空港を建設することを決定した。農民が反対し、(日本社会党と日本共産党は離脱して不参加の中で)1967年に新左翼各派が反対同盟を形成した。各派の主導権争いから農民は3グループに分かれて反対闘争を1970年代に継続した。福田赳夫首相のもとで1978年に開港した後も反対運動は続いた。
Vietnam戦争に反対する学生や若者の運動から世界中の大学で紛争が起こった。日本は参戦していなかったが、同様に大学紛争が起こった。全共闘という学生組織が1968-9年に「現大学は帝国主義的な教育工場となっているから、これを解体しなければならない」という主張を掲げた。1969年1月には東大安田講堂に立てこもった全共闘の学生を機動隊が排除する騒乱事件が起こり、同年の東大入試は中止された。排除された学生は全国の大学に帰り、反体制運動は165校に広がった。それが1970年の日本赤軍よど号ハイジャック事件、1972年の連合赤軍あさま山荘事件に連なった。
近年では、個人情報保護法反対、マイナンバー法反対、安保法制反対などが燃え上がり、原発再稼働やテロ法案への反対も続いている。
我々は長生きしたおかげで、これらの反体制運動を現在の目で再評価することができる。体制側と反体制側のどちらが結局正しかったかを振り返ってみれば、体制側が完勝とは言わないが圧勝ではあるように私には見える。戦後70余年間平和で居られたのは憲法のお蔭と言う人が居るが、そんなに世界は甘くない。日米安保のお蔭であることは明白だ。
なぜこのような愚かな反体制運動が起こるのか? 体制に反対することで勢力を伸ばしたい人達が、題材は何でも良いのだが、大衆受けする題材を選んで旗を掲げ、目論見通り大衆がこれを熱狂的に支持するという構図だ。Mexico国境にTrump Wallを築くというのも同じ構図だ。反対運動が燃え上がった時に、(Web上にでも)記念碑を建て熱烈な支持者の名を刻んだら良いと私は思う。単独講和も安保反対もテロ法案反対も、支持者は喜んで名を連ねたはずだ。10年後に彼らは恥じて反省し賢くなる筈だ。以上