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短編随筆シリーズ「うつせみ」より代表作 Photos of flowers, butterflies, stars, trips etc. '96電子出版の句集・業務記録

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うつせみ
2006年 6月22日
             あとがき

 本文もまだ出来ていない或る著書の「あとがき」を頼まれた。当初固辞したのだが、「はじめに」の原稿を見せられてファイトを燃やした。つまりうまく乗せられた。若い男性の筆になる「はじめに」の原稿は、さすがに親しみ易い名文ながら叙述的で、若い人にウケることは間違いなしとしても私の好みの文体ではなかった。もっと濃密で格調高い文章で最後を締めることが出来そうだ、最初と最後に対照的な価値観の文章があっても面白いのではないかと、その時俄然やる気を起こしたのが大間違い!!

 原稿提出後に本文が少しずつ見えてきた。いや大変面白い内容だ。ただこの著書の大部分は若い女性特有の口語体Blog風の文章で占められることが判った。どう見ても私の文体とは不整合だ。しかし頼んだ方の責任もある。こんなので良いかと未完成段階で予め尋ねる過程も踏んだ。Blog世代ばかりが読む訳でもなかろうと、もはや諦観の境地に達している。

 予兆はあった。自分で納得のいく出来映えの原稿を「無断編集厳禁」と朱記して勇んで送り付けたら、編集者から意見があり「松下様の原稿は漢字が多い。若い人にはどうかと思う」と言ってきた。
  或る時→あるとき、 頂く→いただく、 貰う→もらう
  勿論→もちろん
などの修正を加えたいとのこと。編集者は朱記に遠慮して上記程度の部分修正で済ませる気だったらしいが、そういう趣旨なら全面的に見直さねばなるまい。悔しいから「中学校程度の国語力でも読んで理解できる」ことを目標に掲げて自ら改訂した。同類の漢字をなるべく仮名にする他、中学校レベルならなるべく漢語を廃し平易な言葉を使わねばなるまい。
  有為転変を経て→荒波を越えて、 足らざる点→足りないところ
  錚々たる→立派な、 平易な→やさしい、 至当な→まともな
  異例の→例外的な、 遵法→法律を守る、 怠惰→怠ける
  願うや切→心から願う、 自己研鑽に励む→磨きをかける
  果報者→しあわせ者、破天荒の→驚くような

 これらは明示的に改訂を求められた訳ではなく、拡大解釈で自主的に行ったのだが、そのうちに段々切なくなってきた。「喧嘩」を「けんか」と書けば読み易くなるか? 読める人なら漢字の方が読み易いに決まっている。英語を読んでいてthoughとthroughとthoroughを読み間違えることがある。単語をパターンとして読んでいる証拠だ。英語は単語ごとに空白で区切るからまだよいが、ベタ書きの日本語は一見どこが語の区切りか判らずパターン認識が働き難い。「Aより遥かにBが良い」という文章なら迷いはないが、「AよりはるかにBが良い」だと「Aよりは」と読んでしまいそうだ。運の悪い改行があると、行頭から直前の行末に戻って読み直すこともしばしばだ。だから私は原稿を頼まれたら必ず、何文字×何行が1頁かと尋ねる。改行で「弁慶がな」にならぬよう文章を調整することも珍しくない。その点、読めさえすれば、視認性のよい漢字の方が読み易い。

 それに、これは極めて非論理的な話だが、「例外」より「異例」、「法律を守る」より「遵法」、「まとも」より「至当」の方が意味が強い気がしないだろうか。結果的に文章に勢が付き、読者に畳み掛ける強い衝撃を与えられるように私には感じられる。これらを「平易な表現」に自から改めた結果、私の文章は爪を抜かれた猫のようになった。

 明治中期1890年に森鴎外が文語体で書いた名文「舞姫」の冒頭は次のようになっている。「石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。」 一方明治後期1905年の夏目漱石の「吾輩は猫である」は「吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。..書生という獰悪な種族..」で始まる。難しい漢字もあるが、まあ我々の文章語とあまり変わらない。ところで若い人の書くBlog風の文章は、我々の文章とはかなり異なる。その距離は、我々と鴎外の距離ほどもある。漱石や藤村との距離ではない。我々が鴎外を歴史的文芸として読むように、若い人達は「うつせみ」などの文体に時代差を感じるのだろうか。それは大変淋しいことだ。    以上