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短編随筆シリーズ「うつせみ」より代表作 Photos of flowers, butterflies, stars, trips etc. '96電子出版の句集・業務記録

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うつせみ
2004年10月 4日
            Berlinの壁

 9月にBerlinに行った時、東西Berlin間を外国人が行き来できた唯一の検問所Checkpoint Charllieが今や壁の博物館になっているのを訪れた。Berlinの壁を主題に据えつつも、Prahaの春からMartin Lutherに至る世界のあらゆる人民抑圧と抵抗運動を取り上げてバランスをとっている。トランクに身を潜めたり、小型自動車のダッシュボードに隠れたりして、東独から西Berlinに逃れた人の模型や写真が展示されていて感動した。

 1945年に独は日本の3ヶ月前に降伏した。というより独の降伏が日本の決断を容易にした。ソ連はPolandを西に動かしてソ連の領土を広げ、独の領土を縮めたので、元来独の中央にあったBerlinは東に偏った。その独を米英仏ソの4カ国がYalta協定とPotsdam宣言に従って4等分して占領し、ソ連占領地域に囲まれた首都Berlinをまた4カ国で占領した。ソ連はBerlinの繁華街を含む主要部4割を占領した。当初4カ国は独を統一国家にするつもりだったが、その統一国家のイメージが対立してきた。

 米が主導する米英仏は、米のMarshall欧州復興計画で独を再建せぬ限り欧州の復興はあり得ないと主張した。本音は共産化の防波堤にしたかったのだ。一方独の侵略の記憶が生々しいソ連は、独を骨抜きにせぬ限りソ連の安泰はないと考え、賠償金を長期に取り立てた上で非同盟非武装国にしようとした。この意見の相違から、米英仏3国とソ連はそれぞれの占領地域で自治政府の設立を進め、1949年5月に西側にBonnを首都として西独、Bundesrepublik Deutschland = Federal Republic of Germanyが成立し、10月には東独、Deutsche Demokratische Republik=German Democratic RepublicがBerlinを首都として成立した。

 その過程でソ連は、Berlinの西側占領軍追い出しを目的に1948年、西側占領軍と物資の東独通過を禁止し「Berlin封鎖」に出た。西側は「Berlin空輸=Berlin Airlift」で応えたため、ソ連は324日で諦めて封鎖を解いた。1953年の東Berlinでの圧制反対デモが数百人の犠牲者を出して更に圧制を呼び、一方西側の経済は復興したため、東から西への逃亡者が後を絶たず、特に優秀な人から逃げ出したため東独は危機感を高め、東西間の国境を鉄条網、壁、地雷原、軍用犬などで強化した。東西Berlinの行き来は1952年に禁止されたが、それでも1961年までに2.5百万人が西に逃れたという。そこで東独は1961年8月に西Berlinの周り155kmに鉄条網を張り、間もなく壁に置き換え、更に壁を二重にして監視塔と機関銃で万全を期した。Berlinの壁の誕生である。占領軍を主とする外国人は東西Berlin間ではCheckpoint Charlieの1箇所、東独と西Berlin間、東独と西独間にそれぞれ1箇所の計3箇所でのみ行き来することとなった。Berlinの壁にも拘わらず西側に逃れた人は5千人、失敗した死傷者は400人に上った。

 しかし東独人の逃避は止まらず、東西独間よりも警備が甘い隣の共産国家Hungaryに逃げ込み、中立国Austria経由で西独に逃れた。難民増大に耐え切れなくなったHungaryが1989年8月に、難民のAustriaへの越境を許したため、益々多くの人口が西側に出た。Berlinの壁は意味を成さなくなり、東独は11月には検問所を開いた。多くの市民が壁に上りツルハシを振るった映像は昨日のことのように思い出される。その10ヵ月後にBerlinを訪れた私は、露店でノミとツチを5 Markで借りて壁に挑み、世界平和に貢献したような愚かな感傷を味わった。

 今Berlinの壁は、意図して残した3-4箇所を残して跡形もなくなっている。残った部分も「純正の壁の破片」を持っていく観光客のために徐々に崩されている。独の分裂と統合の象徴となったBrandenburg門のすぐ西側にあった二重の壁はもう影も形も無い。今Checkpoint Charlieには道路の真ん中に検問所の小屋と土嚢が残されていて、米軍兵士とソ軍兵士の写真が背中合わせに掲げられている。当時を想像すれば相当緊張する場所であったに違いない。私は経験していないが、この検問所を通った経験のある人には感動的な場所であろうと思う。

 今度は「Jerusalemの壁」が出来つつあるそうだが、壁はやがて壊されるというのが歴史の教える所である。            以上