笑ってしまった。New York Timesに掲載された論文をPlayboyが引用して曰く「The part of the brain that responds to facial beauty(顔美人または顔の美) is the same area that is activated by food, recreational drugs(麻薬) and money.」 いい加減な論文ではなく、Harvard付属病院の研究だと言う。必然か偶然か「おいしい」という表現は当を得ていた訳だ。Bon-noh Centerとでも名付けたらどうだろう。
手鏡で女子高生のスカートを覗いた植草一秀教授が法廷通いをしていると中吊り広告にあった。一転濡れ衣を主張しているそうだ。こういう事件は本人にシラを切られると立証は難しい。覗いてもあまり美しい画像は想像できないので私は覗きたくはないが、覗いて頂戴と言わぬばかりのスタイルも多いから、植草教授を石もて打つ気にもなれない。或る駅の片隅で2-3人の女子高生がスカートの最上部を折り返して丈を縮める調整をしているのを偶然見かけてふと思った。上り階段で不自然な動作で後を気にしなければならぬほど短くしている理由は一体何なのか?
そこまで意識しているか否かは別として、本質的には同性よりは異性への訴求であろう。であれば訴求に目出度く成功して注目を集め、手鏡で覗かれたりして当然という考え方も成り立つのだろうか? 現に植草パパは「覗かれる方が悪い」とのたもうたと、これも中吊り広告の見出しにあった。
子供の頃から不思議に思っていたことがある。クジャクは勿論ライオンやクワガタでも動物は雄の方が美しい。しかるに何故人間だけは女性の方が綺麗なのか? 長じてこう考えるようになった。動物は雌が雄を選んでいるから雄が立派で美しくないと子孫が残せない。人間でも源氏物語の公達は姫君の関心を惹くために身なりに相当気を使っていた。しかし何時の頃からか男はオシャレをしなくなった。理由は二つだと思う。まず男性が女性を選ぶ時代になった。「玉の輿」というように美しい女性は選ばれて幸せを得られる。仮に女性が男性を選ぶとしても、女性を幸せにする基準は高身長・高学歴・高収入の三高となり、男のオシャレとは無関係だ。しかし近年はまた男性がオシャレになってきた。高学歴・高収入が幸せを呼ぶ評価基準としては怪しくなってきたこともあるが、何より女性が強くなり選ぶ立場になってきたことを反映しているのだと思う。
女性のオシャレは年々過激になる。昔英国で初めてミニスカートを見かけた時にはビックリこいたが、慣れると何とも思わなくなった。何でもなくなると次の段階が模索される。臍の次は何か大いに楽しみだ。これらは、何と言い訳しようと男性を誘惑する仕掛けである。しかし男性が興味を示すと嫌な顔をする。全くの矛盾で、女性が論理的でない証拠だと最近まで思っていた。しかし昨今真理の大発見をした。女性は男性全員に対して大売出ししているのではなく、百人千人に一人の男性のために訴求していると考えてみよう。そうであれば一方で売り出しながら一方で嫌がるのは論理的に正しく、植草パパの言い分は間違っていることになる。
F社の役員会出席のため四谷でJRから地下鉄駅に入った時、フォームに後姿が美しい女性が立っていた。私の経験則では後姿から顔の美人度が推察できる(美人は後姿にも気を使う)。通り過ぎて不自然にならぬよう工夫して振り向き、経験則の正当性を確認した。更に進んで下車駅の出口の位置で電車に乗ったら、後から彼女が同じドアから乗ってきた。役員会のために読んでいた書類から2-3度目を上げて気付かれぬように美術品を鑑賞した。四谷三丁目で降りてF社への道の赤信号で私の早足が止まった時に、スタスタ渡ってしまった女性が居た。見るとさっきの後姿だ。彼女は私の10m先を行き、驚いたことに私の行き先のビルに入った。私がガラス戸をあけて入ると彼女は既にエレベータの上りボタンを押して待っていたが、チラと振り返り3秒ほど考えて、身を翻してビルから出て行った。エレベータが1階を離れた頃私は、「この紳士をストーカ扱いしたな。バカにするな」と立腹していたが、3階を過ぎる頃には「ひそかに鑑賞していたことに気付かれたかな」と恥ずかしく思い、5階に到着した頃には「枯れて安全と見なされなかった」ことを誇らしく思っていた。 以上