キリスト教を一言でと言われたら私は、山上の垂訓の罪の自覚とロマ書の愛だと答える。しかし仏教を一言でと言われたらハタと困る自分を恥じ、仏教を鳥瞰的に概観した本はないかとAmazonを探した。英Oxford University Pressは、人文科学の数十種のテーマにA Very Short Intro-ductionという小冊子を出しており、その一つに次の小冊子があった。
Buddhism, Damien Keown, Univ. of London, pp136
釈迦牟尼(前566-486或いは前463-383、牟尼=聖者)は北東印度の釈迦族の王子Gotama Siddharthaで、城下に出て老病死と出家者に出会い、生の苦と自分の使命を知った。妃と1人息子を捨てて29歳で出家遊行し、苦行の末35歳で菩提樹の下で悟を開いた。悟=菩提=bodhiを得たから、動詞の過去分詞でBuddha=仏陀=仏と呼ばれた。印度旅行で、釈迦牟尼が最初に説法したBenaresを訪れ、この菩提樹の子孫の木から葉を数枚頂戴して押葉額にした。この菩提樹はクワ科で中国以北では育たぬため、似たシナノキ科の木が中国では菩提樹と呼ばれ、仏教とともに來日した。同類の欧州のLindenは男女の愛を結ぶ木であり「山本リンダ」の名の由来でもある。釈迦牟尼が80歳で入滅し涅槃に入った姿が、東南アジアで見かける涅槃仏だ。この時四隅にフタバガキ科落葉高木の沙羅双樹が2本ずつ(=双樹)あり、1本ずつが直ちに枯れたという。この木も日本では育たないので、日本の沙羅双樹はツバキ科ナツツバキだ。平家物語冒頭の祇園精舎は布教拠点の一つ、沙羅双樹は無常の象徴である。
菩提=悟とは、法=Dharma=世の真理、を知ることだ。法とは苦集滅道の四諦(したい 諦=真理)だと釈迦牟尼は説いた。苦=生は苦である。集=苦を集める原因は渇愛・欲望。滅=渇愛を滅すれば苦は無くなる。道=滅を実現する八正道。これは、正見、正思、正語、正業=行動、正命=生活、正精進、正念=法を憶念、正定=修習。次の四法印は四諦と同義だ。諸行無常、一切皆苦、諸法無我=我が自由にならぬ本質を自由にしようとすれば苦が生まれる、涅槃寂静=渇愛を滅却すれば寂静・清涼。
欧米では仏教が宗教かどうかを論じるというから驚く。仏教には全能の創造の神がないからだという。釈迦牟尼は法を悟ったが発明も創造もしていない。仏教では、生は苦とされ生は喜びという考えは無い。出生自体が本人の最初の苦だという。人は行いによって来世には虫や人や菩薩に生まれ変わるが、渇愛がある限り転生し生の苦は続く。渇愛を滅却して涅槃に至れば再生も無くなる。凡人は再生するが、釈迦牟尼に再来はない。この生は苦という考えは印度を旅すると判る。仏教では愛は渇愛を表し、慈悲と区別している。キリスト教はαγαπε=Loveを愛と訳した。
紀元前後に仏教は大きく変わる。既成仏教では救われぬ在家の(僧でない)人々が仏陀と仏塔を信仰し、仏陀が前世で菩提を求め努力した姿を菩提薩?=菩薩として理想像とし、自分よりも衆生の救済に当る利他の行いを尊いとした。このことから自らを大乗仏教(大きな乗り物)と称し、旧来仏教を小乗仏教と蔑視した。大乗仏教は般若経、法華経、阿弥陀経など新しい経典を2世紀頃までに作り出し、教義を哲学的に高めた。また阿弥陀如来(如来=仏陀)を初め無数の諸仏が浄土に住む世界を描いた。北西印度ガンダーラでは100 AD頃ギリシャの影響下で初めて仏像が作られた。それまではインド国旗の中央にある法輪という転生と布教の車輪を描いて仏陀の象徴とした。声聞乗=信仰心で仏の声を聞き悟を求める。縁覚乗=自ら悟を開く。菩薩乗=自分だけでなく皆の悟のために修行する。という三乗があるとする。信仰すれば救われるという思想が仏教に初めて登場したことになる。大乗仏教は印度北西部から西域を経て紀元前後に中国に伝わり、道教と軋轢を起こしつつ漢典仏教となり、チベット語に翻訳されてラマ教に、また朝鮮から538 ADには日本にも伝来した。しかし印度の仏教寺院は13世紀初めにイスラムの軍隊に偶像崇拝の邪教として破壊され、印度の仏教は終わった。チベット以北とViet Namの大乗仏教を北伝仏教、Sri Lankaと東南アジアの小乗仏教を南伝仏教ともいう。
ウン、これで言えるぞ、仏教を一言で言えば四諦だと。 以上