Buenos Airesは印象深い街だ。今はEl Borracho=Drunk Treeの花盛りだ。木の幹が酒瓶のようにふくれ、花が酔人のようにピンクだからそう呼ばれる。但し白い花の木もある。和名も酔いどれの木=トックリキワタだ。紫の花Jacarandaの花期は12月だが、まだ一部には初々しい花があった。季節には街中が紫に染まってさぞ美しいだろうと思われた。
Buenos Airesには、1542年にスペインの南米総督府が置かれた。ポルトガルとスペインの南米勢力圏を分けた法王裁定によって、ポルトガルはBrazilに、スペインはその他に注力した。 Napoleon戦争の混乱に乗じてスペインからの独立宣言が1810年になされ、独立戦争を経て実質的に独立した。しかし意見の相違からBolivia、Paraguayは別の国を目指した。Uruguayは、古来ポルトガルのBrazilとスペインのArgentinaの政争の場だったが、独立国にすることで1825年に両国が妥協した。植民地時代のUruguayの中心地Colonia del Sacramentoは、川幅50kmを隔てて首都Buenos Airesと向き合っており、当然その影響下にあった。TangoのLa Cumparsitaが最初に演奏されたというビルはUruguayの首都にあった。
地図ではBuenos Airesは入江の奥にあるように見えるが、これは河口が200kmもある川だ。Brazilから流れてくる赤土が混じった茶色の泥水、しかし真水、で満たされている。川幅が巨大だから流速はゼロに近い。
16世紀初めスペイン人の来訪時、原住民が善意の証にAndesから交易で得た銀製品を贈った。この周辺で銀が採れると誤解したスペイン人は、この入江状の川をRio de la Plata=銀の川と名付けた。Rio de Janeiro=一月の川は逆に、川と誤解した入江に名付けられた。Argentinaの名もギリシャ語・ラテン語の銀から来ている。スペイン人は当初もっと河口に近い沼地を根拠地としたが、生活排水に加えて植物の腐敗臭が立った。そこで上流に街を移し、Buenos Aires=空気の良い所と名付けた。Argentinaの人口40Mのうち、首都Buenos Airesは都心部で3M、都下を含めて13Mの人口を擁する。Argentinaには原住民を騙して皆殺しにした暗い歴史があり、おかげで人口の87%は欧州人だ。肌が浅黒いスペイン人とイタリア人がほとんどで、時折色白の金髪を見かけると決まって地図を手に持っている。
Buenos AiresはTangoの街だ。優美なメロディーと、バンドネオンが刻む軽快なリズムの不釣合いが美しい。港町で生まれたSexyで下品な踊りが洗練されて欧州で大流行を呼んだ。「松下さんご夫妻はTangoが踊れていいですね」というemailを貰ったが、ワイフは「もう踊れない」と拒否している。8分音符で刻まれるリズムに合わせてSlow(2分音符)-Slow-Quick(4分音符)-Quickという独特のステップを昔は踊ったものだが、Buenos Airesで見かけたTangoは、そういう基本があるのか無いのか分からぬほど高度化した競技ダンスのレベルだった。足を跳ね上げて相手の腰にまわしたり、女性を持ち上げて時計回りに1回転させたりする。しかし美しい。少し腰を落として上体を上下させることなく舞台を滑るように移動する女性の肢体の動きが官能的だ。「本物を見た」という気がした。
街に幾つもTangoショーの看板が出ている。私共は「高いが良い」という評判のLa Ventana=窓という名の伝統的なTangoを見せる店に行った。富豪の個人宅を貧民が共同住宅に使った名残の建物で、煉瓦造りの壁にワインの瓶が差し込んである。わざと壊れかけた窓を背景にした狭い舞台を縦横に広く使って、5人の楽師と3組の踊り手が個別に、あるいは総出で舞台をつとめた。途中でCharangoというマンドリンのような楽器を持った風采の上がらない男が演奏し、初めは何だという目で見られていたが、恍惚の表情で盛り上がるにつれて満場の喝采を浴びた。最後は全員がクリーム色の衣装でバンドネオンとステップがピッタリ合ったTangoで締めた。
Argentineの民族音楽と踊りを披露する一家を船の舞台で見た。なんだ家族芸か、と当初思ったがどうして、Argentina選手権を取ったという兄妹のTangoはさすがに品格があって素晴らしかった。父親はGaucho=Cowboyの太鼓を打ち、兄弟3人は若々しいGauchoの踊りを見せた。
東京とほぼ同緯度のBuenos Airesの夏はなぜか意外に涼しかった。以上