世界史のテストで「Vasco da Gamaが1497年にxxxを回って翌年初めてxxxに到着した」とあったら「喜望峰を回ってインドに」が正解だ。だからCape of Good Hope喜望峰はアフリカの南端だと誰でも思う。ところが左にあらず、Cape Agulhasという岬が南端にあって、Southernmost tip of Africa where the two oceans meet"という観光宣伝をしている。そこから150km西北西に喜望峰の先端Cape Pointがあり、こちらでも何故か大西洋とインド洋が両側に見られる岬だと主張している。Cape Townは喜望峰に抱かれた港町と思っていたがこれも誤解で、Cape Pointから北に50kmにある1086mの台形の山Table Mountainを背にして岬とは反対の北側にCape Townの市街がある。今は埋め立てられた小さな入江Table Bayがあって、そのほとりに1652年オランダ東インド会社がジャカルタまでの海路の中間点として中継基地を開いた。この辺は北緯35度の東京とは対称的な南緯34度で、太陽は東から出て北を通って西に沈むから、家々はみな北向きの家を建てる。山の北斜面は絶好の住居地だ。
上記世界史のおかげでVasco da Gamaが喜望峰を発見したのかと思いきや、同じくポルトガルのBartholomeu Diasが1486年に最初に発見している。彼はエチオピアに行く海路の開発を命じられアフリカ南端まで来たが、喜望峰名物の嵐に遭って陸地を見失い、やっと喜望峰よりはるかに東に到着した。そこで乗務員がもうこりごりだと言い始め、やむなく引き返す途中に喜望峰を発見してCape of Stormと名付けたが、後に改名された。ところで、最近Cape TownでPhoenicia人の数千年前の遺跡が発見され、GamaもDiasも真っ青になっているという。
南アフリカの首都は北部のPretoriaで、行政府はそこにある。しかし不思議なことに立法府はCape Townにあり、司法府は別の町Bloemfonteinにある。司法を別とすれば実質的には首都機能が2箇所にあり、閣僚や議員や官僚はPretoriaとCape Townを往復しているそうだ。英国の支配拠点だったCape Townと、オランダ出自のAfrikaner(英国はBoer人と呼んだ)の独立国Orange自由国およびTransvaal共和国だった北部の押さえとしてのPretoriaと両方に英国が首都機能を持ったのがことの始まりだという。
Cape Townの都心にCastle of Good Hopeという五稜郭そっくりの城跡があった。1679年にオランダ人が完成させた要塞だ。その一角に6本の旗が掲揚されていて南アフリカの歴史を語っている。最初にオランダの旗、Napoleonにオランダ本国が占領されたためCape Townも占領されることを恐れた英国が1795年に占領したので当時の英国の国旗Black Jack、その後オランダに返却したので再びオランダ国旗、しかし1814年にまた英国が占領したので今度はUnion Jack、上記Orange自由国とTransvaal共和国を包含して1910年に英連邦内の南アフリカ連邦としたので連邦旗、1994年にMandela政権が成立して新憲法のもとに南アフリカ共和国となったのでその現国旗、という6本である。この国の苦悩の歴史だ。
Cape Townとその周辺はどう見てもアフリカとは思えない。季節と太陽が反対な他は欧州なのだと結論づけた。その仮説に反するものは、住民に黒人および混血の比率が高いことと、黒人の不法占拠住宅のスラムが存在することだけだ。混血は男女ともハンサムな人が多い。黒人や混血も町でみる限り明るいし米国の黒人より幸せそうに見えた。何しろ自分たちの代表が大統領になっているのだから。ただスラムは問題だ。内陸部から夢を求めて都会に出てきても、教育も訓練も無いからろくな職にも就けず、トタンで囲った不法住宅で最低生活をしている。政府はマッチ箱のような公営住宅を建てて住宅環境と衛生状態の改善を図っているが追いつかないらしい。ここに時限爆弾がありそうな気がする。
白人は勿論昔の特権を懐かしむだろうが、現実を受け入れればこの豊かな国でそれはそれで幸せにやっているように見える。米国標準でも一際豊かな瀟洒な住宅街を郊外で見かけた。黒人政権成立以来引いていた欧米資本も戻りつつあるという。この理想的な移行を人々は譲られたMandela氏と譲ったDeKlark氏の英断の功績と見ている。 以上