勤務先の路上に幼稚園バスの乗降所があり、園児の送り迎えの時間に通り掛かることがある。園児の母親達はうら若く中には綺麗な人も居て、昔ワイフが若さに輝いていた頃を思い出す。園児は可愛いが吹けば飛ぶような存在だ。この園児たちがこれから小学中学高校大学と成長し、怪我や病気を乗り越え、いじめや助け合いを経験し、漢字や外国語を勉強し、スポーツで体を鍛え、職場に恵まれ、失恋も恋愛もしてこの母親の年代になるまでは大変だなあ、このヤンママ達も髪を振り乱したオバンになってしまうんだろうなあ、と思う。人間が一人前になることは大変なことだ。
私共の息子達もワイフの献身的な努力と私の少しばかりの協力支援で大人になったし、私達自身も親の大変な自己犠牲のお陰で一人前になれた。日本全体が貧しかった中で、特に戦争で人生設計が狂った貧しい家庭で戦中戦後に少年期を過ごした私は、母の晴れ着と物々交換した食物で命をつないだ。単身東京に出てきた大学では、学費を含む生活費の1/3は奨学金、1/3は自分で稼いだが1/3は貧しい家計から仕送りしてもらった。それが家計の1割と知っていたから、主任教授から大学に残るように勧められたが就職を選んだ。心残りだったから後に米大学院に行ったし独学で博士号をとった。そういう時代だったから親の苦労と自己犠牲も並大抵ではなかった。今は社会も家計も豊かで親が貧しさと闘う割合は減ったが、昔は無かったような悩みが増え、親の苦労はいつの時代も減ることはない。
人間はどこまで行けば一人前なんだろう。私自身は生涯これ勉強と心得ている。学ぶことと学ばせることの輸出入は現在ほぼバランスしているように思うが、貿易総額は縮小しているかも知れない。大幅入超が続いたのは30歳過ぎに課長になった辺りまでだろうか。
八ヶ岳周辺には縄文遺跡が復元されている。米国南西部にはPueblo Indianの住居跡が沢山ある。これらの遺跡に身を置いて当時の生活を仮想体験すると、多分10歳を越えれば一人前だったのだろうかと思う。武家の時代は数え年15歳を目途に元服が行われたという。近代化で社会が複雑化してしまったおかげで、30歳にならないと一人前になれなくなった。
生物学的に言えば、子供が一人前になったら親が寿命になってもよいことになる。縄文時代に30歳、武家時代に35歳、現代で55歳位でお役御免となるのだろうが、バラツキの下限−3σでそれが確保できるためには、平均寿命はそれに十数年加える必要があろう。
私が不思議に思うのは、なぜ子供はかくも小さく、成長に時間が掛かるのかという点だ。鰻は食べた餌の1/8=12.5%の体重を得ると読んで、育ち盛りの我が子を改めて眺めるとどうも0.3-1%くらいしか体重になっていない。鰻と比べては申し訳ないがその非効率さに呆れた覚えがある。胎生である以上新生児に大きな脳味噌や体格を与えたら母体がもたないから、カンガルーに次いで動物で一番完成度の低い形で出産しなければならないことは判る。だがその後急速に成長して悪い訳はない。成長の早い遺伝子が突然変異で生まれ、平均より早く身体的にも精神的にも大人になったとしよう。その個体は社会で有利に生きることが出来、生殖力も高いであろう。こうして適者生存の原理で人間の生長期間はどんどん短くなるはずではないか。なぜそうならないのか?
もしかしたら、生長期に関節が痛む症状があるくらいだから、生物化学的理由で現状以上に成長の速度は上がらないのか。但し小学校入学くらいで外国語習得能力が一段落ちるのは明らかに環境変化への未適応で、数百年後の人間は変わっているだろう。しかし文明国では福祉と医療が進み家族計画が普及したため、適者生存の原理が働かなくなっているという見方も可能だ。これが成長期間が短縮されない一因かも知れない。
あるいは、成長後が人の本来の存在ではなく、成長中の状態が人間であり、成長が止まったらPost-Humanとでもいうべき付随的な存在なのかも知れない。蝉は地中の18年と木上の2-3か月とどちらが実体かという問題と同じだ。もしそうなら皆さん、成長が止まったら危ないですゾ。 以上