2002年 3月 7日
造船所は満杯だった
GPSを見ていると長崎から目と鼻の先の上海にはすぐ着けそうだった。3月3日だ。実際揚子江の河口までは早かった。世界地図でしか上海の記憶が無かった私には、上海は河口の都市という誤解があったが、実は河口から70km揚子江を遡り左折して支流を30km遡ったところに上海の街はあった。最後の数十kmは10km/hrほどで上ったので大変時間が掛かった。最初は揚子江の流れが強くて進まないのかと思ったが、さすが上海に出入りの船は無数にあって、その大多数を占める貨物船の速度とあまり違う速度で航行すると安全上の問題があるという配慮であろうと理解した。
まず上海郊外の東シナ海に面して建設された巨大な第二国際空港が船から見えた。もっと遡ると、川岸には造船所が連続していた。驚いたのはそれらが全て満杯だったことだ。理屈では理解していたが、感覚では「造船=不況」という方程式が染み付いていて、満杯の造船所を見て感動した次第。そうか日本の造船所が空いた分ここに来ていたのか。尤も巨大船は無かった。多分韓国の船台にあるのだろう。
長崎出航を1時間遅らせたためと、揚子江での「徐行」の影響と、船のスタフがまとめて代行してくれる中国官憲の手続きが意外に長かったおかげで、上陸できたのは予定よりも3時間以上遅れて8:20pmだった。友誼商城というショッピングセンタまでシャトルバスで出掛けてみた。このショッピングセンタがすごいのは、9:30pm閉店予定のところ、遅れた我々の船のために特別に11:30pmまで閉店を遅らせたことだった。異常な購買力と購買意欲を持つ連中だからそれが経済的には合理的だとしても、船が遅れたから2時間閉店を延ばすということを共産国の店がやるから驚く。横浜のマイカル本牧でも浜松町のダイエー本店でも、こういうことが出来るとは思えない。但し我々二人は期待に反して麺を食べてキータグを買っただけで見学に終わった。翌日はバスで市内見学をした。
一日中航海した日を挟んで3月6日昼すぎには香港の海峡に入った。まず驚いたのは両岸つまり九龍側と香港島側に並ぶ無数の高層アパートだった。香港郊外にはこういう巨大な人口があったのか。3pmにはスターフェリーの九龍側ターミナルに近い埠頭Ocean Terminalに接岸した。上海とは異なり官憲のチェックは30分で終了し、すぐ上陸できた。九龍の北のほうにあるGolden Building PC ShopsでModemを購入したついでに周辺を見回せば、熱気のあるPC商店街に人があふれていた。地下鉄で香港島に渡り、先回来た時に時間の制約が惜しまれた南端の商店街Stanley赤柱にタクシーで行った。上海と香港では通貨が違うことを愚かにも忘れていたが、それでも香港は完全に中国になっていた。また上海などの中国の都市が香港に近づいていて、その差が縮まっている。米国の不況で景気は良くないとは言うもののどこもここも店は賑やかだし、売り子は熱心だ。
翌日朝の散歩で九龍公園という日比谷公園のようなところを発見した。違う点は大勢の人が太極拳をやっていることだった。ヨボヨボの老人すら自分なりの体操をしている。この習慣が中国人のバイタリティーに及ぼす影響は小さくないと見た。
中国人は元気で自信にあふれていた。勤勉に努力していた。中国伝統の個人主義・家族主義が、日本の集団主義よりも世界経済に整合している面があると思うが、それよりも人々の生活態度に経済発展の源泉があるように感じられた。中国から日本を見れば、かっての英国病のような驕れる怠惰な日本人が見え、日本人の多くが内心では馬鹿にしているかも知れない中国に追い抜かれる日も遠くないように思えた。椎茸・葱・畳表の関税は地域選出議員には大事なことかも知れないが、当事者には申し訳ないが枝葉末節である。もっと危機感をもって戦略的な手を打たない限り日本経済は間違いなく衰退し中国に負けるという確信をもった。本当は日本の政治家が日本文化のカーテンごしにではなくもっと中国に直に接して危機感を感じ取るべきだと思うのだが、それが無理そうなことも私には分かっている。日中で若者を1年間交換するプログラムはどうだろうか。日本の若者も少しはピチッとするのではないだろうか。 以上