中小企業の世界を長年外から見てきたが、同じ目線で見ると学ぶことも多かろうと考え、中小企業対象の信金系のVenture Capitalに身を投じて2年余になる。日本を支える中小企業の人々から予想通り多くを学んだ。しかし一方では、中小企業を構成する国民大多数にとって、高校・大学で学んだはずの内容が全然知識になっていないことに気付いて驚いた。
例えば3(百万円)借金したい。2は1年後に、1は2年後に一括返済する。返済総額を1割増の3.3に抑えるには年利幾らならよいか?これは高校で習った2次方程式で解ける。大学では外国語2つが必修だ。歌手グループ名がL'arc an Cielだったり独の住所がShloss Strasseだったりしたらミスプリに違いないと思うはずだ。対象・対照・対称の混同もよくある。大企業では誰かがこの程度は必ず即座に正解・修正する。そういう環境を当然と思っていた私が認識不足で、多くの人にとってこれらは忘却の彼方か、そもそもインプットされたかどうかも怪しい。かくいう私も先日平方根の筆算法を忘た自分に驚き、しかし原理から再発明できたことに一安心した。電卓に頼っているとそのうちに割算の筆算も怪しくなるかな。
寄席で勉強したという噂の大山東大名誉教授の名講義を昔聴いた。「君達は学力は一応自信があるらしいが、これをX軸とすれば、人間にはY軸もZ軸も、もっと多次元の軸もあって、人間の価値は多次元の体積で決まる。X軸以外を高めよ」と。今の私には当然過ぎる話だが、学生の私には新鮮だった。中には「ワイ軸とは意味深」と妙に感心する級友も居た。
人の価値は多次元の体積と今ではよく知っている私は、上記の問題が出来なくても馬鹿にしたりはしない。2次方程式は出来なくても上手な借金の障害にはならぬ。L'arc en Cielが仏語の虹と知らなくても芸能界で成功できるだろう。事業成功を計る確率論や期待値の計算はできなくても設備投資の勘は天才という人も居るし、財務諸表から問題を読み取るには四則演算で充分だ。経営者の人物を見抜く眼力に漢字は要らない。だから私はX軸の低さをあげつらい問題視しているのではない。大多数の人々にとって高校・大学の授業が結果的に無駄な時間になっているという国家的大損失に愕然としている訳だ。但し学力不要論を主張する訳ではない。
問題は明らかで高進学率と学力主義画一教育が不整合なのだ。米国の州立大学の学部では、外国語は必須ではなく学ぶ学生は少ない。代わりに英語(国語)は徹底的に教え、英語の単位取得失敗は落第放校のトップ要因だ。数学のレベルは日本より低く理科系でもFourier変換などは俄然高度になる大学院で初めて教える。学部で全員に外国語や高等数学を教えてもどうせ身につかないし卒業後役に立たない。将来専門的な職業を目指す人は大学院で鍛えるという思想だ。母校Illinois大にはNobel賞教授の物理学科もあったがRecreation学科もあった。シンガポールでは小学校高学年から学力による選別が始まり、以降何段階かの選別で徐々に職業教育コースと高等教育コースに分けていく。資源も人口も限られている小国シンガポールだからこそ、効率的な人材育成が国家存立の必須条件という考えであろう。シンガポール式は難しいが米国式なら日本でも採用可能だ。
終身雇用制から改めねばならぬ。企業は、数分の採用面接だけで一旦採用したら一生給料を払わなければならないとしたら、ハズレが少なくツブシの利く一流大学卒を採用したいに決まっている。かくして学力だけを尺度にして企業も学校も階層化され、本来不要な学力への努力が正当化され必須となる。それに背を向ければ落ちこぼれだ。3年以下の有期雇用契約は厚生年金の政府負担割合を増やすなど、終身雇用制を崩す国策が必要だ。3年契約なら出身校に無関係に採用できよう。次に大学は「学問の殿堂」という看板を「学問と職業訓練の殿堂」と塗り替え、大学に外交官学科、ホテル学科、プログラマ学科、マンガ学科、ラガー学科などを増設し、学科に役立つ能力を見る入試にする。そうすれば日本の高校・大学は万人にとってもっと有意義になり、落ちこぼれも不登校も減る。勿論研究開発者を育成する学究コースが必須なのは言うまでもない。 以上