ゆで卵を、長手軸を水平にして平らなテーブル上で速く回転させると、卵はやがて立ち上がり軸の回りに回転することは何世紀も前から知られていたよ
うだ。聞いてはいたが半信半疑だった私はワイフに固ゆでを注文して実験した。いや見事、5秒も経たぬうちに100%立ち上がる。しかも卵は立ち上がる直前
に上下振動が急増し何度か10ミリ秒ほど0.1〜0.01mmくらいテーブルから離れて跳び上がり、カーボン紙上で回すと軌跡が点線になるそうだ。この現
象に6年間を捧げた慶応大学教授の本が面白い。
「ケンブリッジの卵 下村裕 慶応大学出版会 2007 pp260」
これは320年前のNewton力学の世界だ。勿論本書には方程式は出て来ないが、原論文を見ると筆者は最終的には三角関数を含むベクトル微分方程式で近
似的に解いた。しかし途中過程ではしばしばComputerでRunge-Kutta数値解法で確かめつつ進んだから、やはり20/21世紀の解法かも知
れぬ。
昔私は社内報に書いたことがある。室温では原子は全て蠕動(ぜん動、ピクピク動く)している。通常原子は勝手な方向に動いているが、偶 々卵全体の原子が一斉に一方向に動いたら卵は飛び上がるのではないか。この工場も皆が力を合わせれば有り得ないことが起こせるのではいかと。しかしそれと は別の話で、例え絶対零度でも卵は飛び跳ねると筆者はいう。
Newton力学の重要な法則の一つに運動量保存則がある。質量mの物質がvの速度で運動している時に、その積mvを運動量といい、他 の物体と衝突したりしても運動量の総和は変わらないという法則で、物理の入試には必須の法則だ。同様に回転体の場合は 角運動量=慣性モーメントx角速度 が保存される。ところが卵が立ち上がる時には、角運動量の垂直成分x重心の高さ も保存されるというのが筆者の発見だ。本書では分かり易く 回転数x重心の高さ と表現している。摩擦の無いテーブル上では卵は立ち上がらないが、摩擦で回転数が僅かに落ちると重心が僅かに上がり、(慣性モーメントが僅かに落ちるから 益々重心が上がり)卵は立ち上がった状態で安定になるという原理だそうだ。ゆで卵は丸い端に空気袋があるために重心が高くなる姿勢、つまり尖った端を上に 立ち上がるが、石や金属で出来た中身が一様に詰まった卵では尖った端が下になるという。
本書の一面は、研究日誌である。専門分野で進展がなく悩むうちにふとしたことから卵が立ち上がる話に入り込み、古くから知られている現 象に理論がないことから、Mofatt教授と共に四苦八苦の挙句に遂に、卵は飛び跳ねた後立ち上がるという理論を完成させてNatureに2つの論文を発 表した。研究に一度でも従事したことのある人には経験があることだが、前人未到の研究は五里霧中でも意気揚々とスタートするものだ。そのうちに道に迷い、 行き止まりにぶつかり、行きつ戻りつするうちに或る日突然啓示のように目の前に道が開ける。その道をルンルンとしばらく行くとまた行き止まりになる。そう いった過程を繰り返しながら研究は進展する。筆者はMofatt教授と共に苦しみ悩み、教授が進展させることもあり筆者が進めることもあり、批判し合いア イディアをぶつけ合って成果を得た。
一方本書は留学記の一面を持つ。慶応大学の流体力学の先生だった筆者がCambridge大学の流体力学の研究所にVisiting Professorとして留学し、伝統ある同大学で様々な体験をしたことが語られている。
本書の3番目の一面は、筆者の物理教育に関する考え方の開陳である。紐理論だの素粒子だの難しいことを言う前に、身の回りには不思議なこ とは一杯ある。卵もその一つだったから6年かけて解いた。金平糖には角が約30個あり、20個でも40個でもない理由は何か、ブーメランが戻って来る理 論、ドミノ倒しの速度は何で決まるのか、水切り(水面で石を何度もジャンプさせる投げ方)の理論、粒の小さい酸性雨の被害が大きい理由、など様々な現象を まず不思議に思い、自分で考えてみることが大切だという。ごもっとも。筆者はこれら不思議な現象を慶応大学の教養課程の文科系学生対象の物理の時間に持ち 出し、また学生に不思議な現象を発見してもらい、物事を科学的に考えることを教えているという。
研究に経験や興味のある人にはスラスラ読めて楽しめる本だ。 以上