鳥獣や魚は雌より雄が美しいが、人間は逆に男性より女性が美しい。BeautyもBeauteも美の意味だが女性をも指す。なぜか? 私が考え出した仮説は「選ばれる側が美しくなる」という理論だ。その証拠に、近年女性が主導権を握り男性を選ぶ傾向が出てきたから、男性がおしゃれになり、男性用化粧品が売れるようになった。孔雀でもライオンでも鳥獣の生態を考えてみよう。雄が居ても居なくても、あるいはどの雄と過ごしても、雌の生活はほとんど変わらない。こういう条件下では雌が雄を選ぶ。魅力的な雄が子孫を残すことを何世代も重ねて行けば雄は美しくなる。
人間がチンパンジーの祖先と袂を分かってから数百万年だという。チンパンジーの雄や雌が格別美しいとも思わないが、この数百万年で人間の女性は美しくなった。「玉の輿」という表現があるように、どの男性と一緒になるかによって女性の人生は大きく変わるようになった。女性は生活力を失ったから選択権を失い、男性に選ばれるようになり、女性は美しく愛嬌良くなった。尤も最近は「逆タマ」という表現が現れ、男性も美しくなる傾向が出てきた。私は失格だが一般論としては結構なことだ。
New Guinea原住民の原始生活を見ると、玉の輿があるようにも見えない。生活の格差が無いからだ。しかし人間はエジプト文明の昔から階層社会・格差社会を作ってきた。本質は私有財産ができて、その多寡によって生活が変わってきたことだと思う。財産を作り維持してきたのは男性だ。筋力も気力も強い男性が財産の取得と維持により適していたからであろう。田畑や家畜を沢山持つ男を配偶者に選べば女性は良い生活が出来ることになった。つまり正確には、女性が生活力を失ったのではなく、生活レベルの上積み分に格差が生まれ、上積み分を男性が支配した結果、女性が男性に上積み生活を依存するようになったのだ。但し近代社会では、筋力・気力よりも知力が重要になり、女性進出の時代になってきた。
女性をより美しくする化粧の歴史も古い。エジプト文明でLapis Lazuliの微粉でアイラインを引き、口紅をつけた記録がある。化粧が欧州に普及したのは中世だと言われている。源氏物語の女性は化粧をしているが、日本で化粧が広まったのは江戸時代からだという。それでも紅花を材料とした京都製の口紅の価格は同一重量の金と同じだったという。日本で西洋風の化粧が広まったのは昭和に入ってからでまだ日が浅い。
最近の女性は言うかも知れない。女性が美しく装うのは何も金のある男に選ばれるためではない。惚れるに値する男に出会う期待があってのことだ、選択権は私(女性)にあると。そこには、いずれにせよ最低限食うには困るまいという前提がある。そんなことが言える時代に生まれた今の女性は幸せだ。日本でもほんの数十年前までは多くの女性が貧しさ故に身売りし、妾になっていたのだから。半世紀前のワイフの娘時代、勤務先の帝国ホテルの先輩女子社員からこんこんと諭されたそうだ。「金のある男を選びなさい。見かけは二の次でいいから」と。あまり苦労を知らなかったワイフはその忠告が身に沁みることがないまま、愚かにも結局そのどちらも無い私と結婚して苦労した。だから私はワイフには頭が上がらない。
近年はやや怪しくなってきたが、人間の長い歴史の中では女性は選ばれる側に立ったから美しくなった。しかし女性は強かにも美しく装うことを楽しみ、男性はそういう女性に憧れる。それを土壌として様々な芸術が発達した。ところが私くらいの年配になると、美人の誉れ高かった同級生ほど同窓会に顔を出さなくなる。原節子が鎌倉に引っ込んで生死不明なのと多分同じで、それはそれで奥ゆかしい心構えではあるが、男子同窓生としては同窓会でマドンナには是非会いたいものだ。どんなに年相応の外観になったとしても、青春の思い出であり、故郷のようなものだからだ。自分がそう思うからワイフには、女性は同窓会には出る義務があると説得している。中学高校では話も出来なかったという男子同窓生が、けれんみの無い70歳過ぎのいいおじいちゃんになって喜んで話しかけて来るので、そつない対応に草臥れると言いながらまんざらでもなさそうだ。
女性の美しさにも色々あり男性の好みも様々な所がまた面白い。 以上